さんしょう
→補註14。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
▲
14 女人・根欠・五障三従
『浄土論』などには、浄土は平等なさとりの世界であって、「譏嫌の名なし。女人および根欠、二乗の種」は存在しないと説かれている。
ここでいわれる譏嫌とは、成仏できないものとして嫌われることを意味していたが、『論註』には譏嫌名に世間的なそしりの意味も含められている。それは当時の差別された女性や障害者の救済を説くために、浄土にはこのような差別の実体もなく、女人や根欠という差別的な名さえもない絶対平等の世界であるとあらわされたものである。
その聖典が成立した当時の社会にあっては、女人や根欠を卑しいものとみる社会通念が支配的であった。そうした中にあって仏国の平等性をあらわすことによって、差別の社会通念を破り、女人や根欠に救いをもたらそうとした教説である。
二乗とは声聞、縁覚という小乗の行者のことであって、仏になれないものとされていた。根欠とは、『論註』では、眼、耳、舌等の諸器官が不自由な人のこととみられている。
釈尊は比丘尼、沙弥尼として女性の出家を許されたし、実際にさとりを開いた女性が存在していたことも『長老尼偈』などには記録されていて、さとりを開くのに男女の差のないことが初期の教団では立証されていた。
ところが、後世の教団では五障三従説を唱えて、女性は仏になれないとしたのである。五障説とは、梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏の五つに女性はなれないというもので、世間的にも出世間的にも女性は指導者になれないとする説である。
三従説とは、『マヌ法典』に、「婦人は幼にしてはその父に、若き時はその夫に、夫死したる時はその子息に従うべし。婦人は決して独立を享受すべからず」とあるもので、仏教教団もこの思想に多分に影響されて五障説を唱え、五障三従の教説が成立したのである。そうした中、『法華経』や『大経』などでは変成男子の教えが説き示されるようになった。すなわち『法華経』の「提婆品」には、女人は五障があって成仏できないであろうとする舎利弗の疑問に対して、八歳の竜女が女身を転じて男身となり成仏していくことが説かれており、また『大阿弥陀経』の第二願や、『大経』の第三十五願には、本願力によって女身を転じて往生成仏せしめようと誓われている。
このように女性が一度男性になってから仏になるというのは、父権制社会のきびしい差別の中で、仏になれないとされた女性に成仏の道があることを示したものである。親鸞聖人は、この変成男子を女人成仏と受けとめるとともに、さらにすすんで「男女老少をえらばず」といい、阿弥陀如来の本願は、男性も女性もまったく差別なく、ひとしく救済されるとあらわされたのである。
女性を罪深く、不浄であるとする考えは、現代の一般社会にもみられるが、これは男性中心の考え方であり、女性差別の思想であるといえよう。
また「女人・聾・盲」などの言葉が譬喩としてよく使われるが、その多くは悪い意味で使われている。たとえば、『論註』(上 76)に、浄土にはそしり、嫌われるような名さえもないということをあらわすのに、「人の諂曲なると、あるいはまた儜弱なるを、譏りて女人といふがごとし。また眼あきらかなりといへども事を識らざるを、譏りて盲人といふがごとし。また耳聴くなりといへども義を聴きて解らざるを、譏りて聾人といふがごとし。(中略)かくのごとき等ありて、根具足せりといへども譏嫌の名あり」といい、世間では、女性や、障害者のすがたをそしり嫌うことの譬喩として用いているといわれるものなどがそれである。
このように女性や心身に障害のある者をそしりの言葉として用いることは、今もなお行われているが、たとえ譬喩としてであれ、女性や心身に障害をもつ人を差別することは大きな誤りである。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。