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無疑心

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

むぎしん

 無疑心とは、信楽(しんぎょう)を領受した心で、疑い心の無いことである。不疑心といふ疑わない私の作る心の意ではない。
御開山は「本願成就文」で、

然経 言聞者 衆生聞仏願生起本末 無有疑心 是曰聞也。 言信心者 則本願力廻向之信心也。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これをといふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(信巻 P.251)

と、疑心あることなし(無有疑心)とされておられた。如来の本願は衆生を済度することに疑いなき仏心であるから、その仏心回向された本願力回向のご信心には疑いが無いのである。これを機受でいえば無疑心といふのである。→疑蓋
『一念多念証文』には、「本願成就文」を釈し、

聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一多 P.678)

と「疑ふこころなき」(無疑心)とある。(無疑心
『唯信鈔文意』では、本願を領受した「機受」の無疑心を「うたがひなきこころ」と表現し、

「信」はうたがひなきこころなり、すなはちこれ真実の信心なり、虚仮はなれたるこころなり。虚はむなしといふ、仮はかりなるといふことなり、虚は実ならぬをいふ、仮は真ならぬをいふなり。本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。 (唯文 P.699)

と、虚仮の自らのはからいを離れ「本願他力をたのみて自力をはなれた」ことを「唯信」とされておられた。

御開山は、第十八願三心を結釈して、

三心すでに疑蓋雑(まじ)はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。(三心已疑蓋無雑 故真実一心 是名金剛真心 金剛真心 是名真実信心。)」(信巻 P.245)

と、疑蓋(ぎがい)無雑(むぞう)(疑蓋雑はることなし)と述べておられた。疑蓋とは本願に対する疑いの蓋といふ意で疑心のことである。この疑蓋を(なじ)えないことを無疑心(疑心なし)といふ。
この無疑心とは、疑ふこころなきで、疑いがない心があることではない。無疑心とは無い状態を示す語である。では、何があるかといえばがあるのである。にあることを信心信楽)というのであった。

不疑心
無有疑心
トーク:無有疑心

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