えしん
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(回心から転送)回心
この場合は悪心を改悔する回心懺悔の意。(歎異抄 P.848)
心をひるがえすこと。
『唯信鈔文意』には「回心といふは自力の心をひるがへし、すつるをいふなり」(唯文 P.707)とある。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- 回心:
自己の描いていた価値判断の体系(自己の存在理解の枠組み)の世界が崩壊し、まったく新しい精神世界と邂逅することによって存在の捉え方の構造が変化すること。仏教では、古層といわれる仏典の『スッタニパータ』には「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」と「旧い皮を捨て去る」とある。[1]
この意味では、仏教における回心とは、古い自己が死んで新しいわたくしが生まれたということである。
御開山は『愚禿鈔』上で『往生礼讃』の「前念命終 後念即生彼国(前念に命終して後念にすなはちかの国に生じ)」(往生礼讃 P.660) の文を取意して、
とされておられる。『往生礼讃』の当面では、娑婆の前念と浄土の後念の二念の意である。御開山は、この『往生礼讃』の意を転じて、本願を信受した時に、即(そく)、古い私は死んだ(前念命終)のであり、即得往生とは、即(そく)、新しく阿弥陀如来の浄土へ生まれて往く生(いのち)が始まった(後念即生)のだとされるのであった。大谷派の曽我量深師は「信に死し願に生きよ」という言葉で表現されていた。
なお、ここでの前念と後念は、本願成就文の「聞其名号、信心歓喜、乃至一念(その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん)」の一念の信心歓喜の事態(信益同時)を意味する表現であり、善導大師のような前念と後念の二念ではない。これを前後二念と取り違えると現生往生説になってしまうのである。
浄土真宗での回心とは、阿弥陀仏の利他のご本願を受け入れたご信心の人は、もう自力(自利)の命が死んで、阿弥陀仏に包摂された新しい他力の命が始まったのだというのである。
- ↑ ニーチェには「脱皮できない蛇は滅びる」という言葉がある。