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果遂のちかひに帰してこそ

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

かすいのちかひにきしてこそ (浄土和讃 P.568)

定散自力の称名
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する

浄土真宗聖典全書』二 p370。国宝本の「果遂のちかひに帰してこそ」の左訓に、

ジリキノココロニテミヤウガウヲトナエタルオバツイニハタシトゲムトチカイタマフナリ
自力の心にて名号を称えたるをば、ついに果たし遂げむと誓いたまふなり。(浄土和讃 P.568 左訓)

とある。御開山の意では、

すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓第二十願)、まことに由あるかな。(化巻 P.413)

自力念仏から第十八願選択の願海に入られた願功を果遂とされるのであった。
また、

すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。(真巻 P.372)

と、仮の浄土も大悲の顕現である報土中の化土とされている意から窺えば、まさに如来の本意(随自意)ではないのだが「弥陀の大悲深ければ」自力念仏を示す第二十願まで建てて、化土までは迎え取るというお心でもあろう。当然、これを聞いた上からは真門自力の称名を捨てて第十八願への本願力回向の救済に帰すべきであることはいうまでもない。

果遂の願
浄土和讃
六三法門

参照WEB版浄土宗大辞典の「一生果遂・三生果遂」の項目