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自力念仏

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

じりき-ねんぶつ

 阿弥陀仏本願によらず、自己の行ずる念仏功徳を自己の功徳として積み重ねて往生を遂げようという心で称える念仏のことをいう。
そもそも、念仏とは阿弥陀仏の回向したまう選択本願の教法であるから、自力念仏ということはあり得ない。念仏は、因位法蔵菩薩選択された往生浄土の行法であるからである。
浅原才市さんは、

「さいちよい。へ。たりきをきかせんかい。」
「へ。たりき、じりきはありません。ただいただくばかり。」

とか、

「他力には 自力も他力も ありわせん 一面他力 なむあみだぶつ」

などの言葉を残して下さった。
浄土真宗のご法義に入った当初は、自力とか他力といふ名目に迷い、他力の念仏を称えようと心がけるのだが、それこそが自力の骨張であろう。本願力回向の念仏に於いて自力とか他力を論ずることが自力の妄想であった。

しかして、『阿弥陀経』に説かれる、

舎利弗、不可以少善根福徳因縁得生彼国。
舎利弗、少善根福徳の因縁をもつてかの国に生ずることを得べからず。(小経 P.124)

の文に着目し次下の「名号を執持すること、もしは一日、もしは二日……もしは七日」の大善大功徳である念仏(襄陽の石碑の経) を自らの称えた称名の功徳(称功)であると取り違えて修するから自力の行業になってしまうのであった。これをは真なのだがが仮であるから半他力/半自力の「真門」といふ。真実門から実の一字を抜いて真門といふのである。→願海真仮論
御開山は、その真門の意を、

真門の方便につきて、善本あり徳本あり。また定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。雑心とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもつて名号を称念す。まことに教は頓にして根は漸機なり。行は専にして心は間雑す。ゆゑに雑心といふなり。定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。(化巻 P.399)

と、「教は頓にして根は漸機なり」(教頓機漸(きょうとん-きぜん))といわれていた。念仏(なんまんだぶ) は、頓に往生成仏の教法であるのだが、それを行ずる根機が罪福を信ずる心〔信罪福心〕によって自力の法にしてしまうのである。なんまんだぶ(名号)には真仮は無いのだがの失によって自力念仏に堕すのであった。
御開山が、

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了(さと)らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。 (化巻 P.412)

と、された所以である。御開山は仏道の正因として、三心即一の(横超の菩提心)と乃至十念念仏を示された。それは「行信不離」の、

まことに知んぬ、至心信楽欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主(天親)、建(はじ)めに「我一心」(浄土論 二九)とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」(同 三三)とのたまへり。(信巻 P.245)

とされる「如彼名義欲如実修行相応故(かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲(おも)ふがゆゑに)」の阿弥陀仏の名に相応した名義相応のなんまんだぶであった。自力の名号(なんまんだぶ)は「名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」とされた所以である。→四法、→行信

◆ 参照読み込み (transclusion) トーク:招喚したまふの勅命

招喚したまふの勅命

時々、念仏を、自力の念仏と他力の念仏に分けて、自分が称える念仏の能行説(能動)と阿弥陀仏に称えさせられる念仏の所行説(所動)の能所の語に幻惑されて「私にはお念仏が出ません」という門徒がいる。便秘なら出ませんということもあろうが、なんまんだぶが口から出ないなら努力して舌を動かして〔なんまんだぶ〕と称えればいいのである。
信心正因 称名報恩」という真宗坊さんの説く硬直しドグマ化された言葉に幻惑されて、信が無ければ称名をしてはいけないと誤解して、「名体不二」のなんまんだぶが称えられないのであろう。TPO(時と所と場合)を考慮せずになんまんだぶを称え、周囲から「くせ念仏」と揶揄されていたばあちゃんが悩んでいた。そのときに、じいさんが、たとえ癖の(から)念仏でも阿弥陀様が実を入れて受け取って下さるから、こっちが心配するな、と言っていたものである。
因幡の源左同行は、

念佛にや しいらはないけつど
人間が しいらだがのう
しいらでも 称えなんすりや 実がいつでのう
*しいら 粃・秕(しいな)、から(殻)ばかりで実のない籾(もみ)。十分にみのっていない籾。しいだ。しいなし。しいなせ。しいら。

と、云われていたものであった。
樹の枝は風がふくから動くのであり枝が動いたから風がふくのではない。自力念仏とは我が動いて大悲の風を起こそうというのであろう。大悲の風は倦むことなく常に招喚したまふの勅命としてふいているのであった。
「風にふかれ信心申して居る」(尾崎放哉)という句がある。「信心申して」という表現は秀逸である。なんまんだぶと称えることは信であり、これを「称即信 (名を称えることが即ち信心)」というのである。
深川倫雄和上は『領解文』を釈して、

 さてこの御たすけの法を頂き、ご恩尊やと称え()つ聞いて慶ぶ所を、「このうへの称名はご恩報謝と存じ」と出言しました。ここに称名はご恩報謝というのは、称名の、即ち称えるということが報謝であるということであります。
 称えるのは私、称えられるのが号。称えようと思う心も、舌を動かし息を出す仕事も私のすることで、これはご恩報謝。称えられる名号は、如来回向の正定業であります。お六字の意味を「有り難うございます」と領解してはなりません[1]。本願に「乃至十念」とありまして、称名は信仰生活の第一です。何はともあれ、お称名をして暮らすことであります。 (平成7年「改悔批判」)

と、なんまんだぶを称えて聞きなさいよ、とのお示しであった。「」はわたくしの報謝の努力であり、「(号)」として聞えて下さるのが「そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞ[2]」という「本願招喚の勅命」であった。
真宗の学僧大厳師[3]は、

罔極仏恩報謝情 (罔極[4]の仏恩報謝の情)
清晨幽夜但称名 (清晨幽夜[5]ただ称名)
堪歓吾唱雖吾聴 (歓びにたえたり、われ唱えわれ聴くといえども)
此是大悲招喚声 (これはこれ大悲招喚の声)[6]

と、なんまんだぶという自らの称える声に本願招喚の勅命を聞かれたのであった。
この漢詩の意を、原口針水和上[7]は、より解りやすく和語にされ、

我れ称へ 我れ聞くなれど
南無阿弥陀 つれてゆくぞの 弥陀のよび声

と、讃詠されたのであった。甲斐和理子さんは、

み仏(ほとけ)の み名を称える
わが声は わが声ながら 尊かりけり

と詠っておられたのであった。越前のなんまんだぶの門徒は、本願寺の大谷光瑞門主の言葉とされる、

我、名号となりて衆生に到り衆生とともに浄土へ往生せん、若し衆生生まれずば 我も帰(還)らじ

の句を、

われ、名号となりて衆生に至り、衆生かえらずんば、われもまた還らじ

と、なんまんだぶを称え、第十八願の、

乃至十念(ないし-じゅうねん) 若不生者(にゃくふ-しょうじゃ) 不取正覚(ふしゅ-しょうがく)(乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ)。

の意を味わっていたのであった。

生死に呻吟している人生に「わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん(欲生我国 乃至十念)」(大経 P.18) と、なんまんだぶと呼ばれて、なんまんだぶと()いて生れる浄土があるとは、ありがたいこっちゃな。なんまんだぶ なんまんだぶ

hwiki:称えるままに本願を聞く

六三法門

  1. 称名報恩の報恩には、お助け下さってありがとうございますという意もないことはないのだが、ともすればgive and take の人間間の取引関係のように誤解されるからのご注意である。「安心論題/十念誓意
  2. 「そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞ」を、第十八願の至心・信楽・欲生我国の約仏の三信に配当すれば、至心は、そのまま来いよ、信楽は、間違わさんぞ、欲生我国は、待っておるぞであろう。それが乃至十念の、なんまんだぶという声の「招喚したまふの勅命」であった。
  3. 大厳(だいごん)。寛政三年(1791)~安政(1856)。長門教専寺の住職。石見高津(浜田市高津)の人。履善に学び、能行説をを唱えた。文政6年教専寺に入る。儒学を修めて萩で易経を講じた。
  4. 罔極(もうきょく、もうごく)。きわまりのないこと。
  5. 清晨(せいしん)。明け方。幽夜(ゆうや)。しずかな夜。
  6. 意訳:極まりなき佛恩報謝の情(こころ)は、すがすがしい朝から静かな夜に到るまで、ただ〔なんまんだぶ〕のみである。歓びに値するにこのうえなし。私が称えて私が聞いているようだが、これぞこれ、阿弥陀仏の大悲をこめて招き喚ばれる呼び声である。
  7. 原口針水 (1808-1893)本願寺派の学僧。院号は見敬院。光照寺(熊本県山鹿市)住職。曇龍に師事。また長崎で宣教師からキリスト教を学び、慶応4年(1868)には学林の破邪顕正御用係に任じられるなど、キリスト教対策にあたった。明治6年(1873)勧学。明治24年(1891)大学林(現在の龍谷大学綜理に就いた。門下から島地黙雷が出ている。著書に『安楽集講録』などがある。