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「常楽我浄」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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常楽我浄とは、大乗仏教で、仏及び涅槃の境涯を示す語である。特に浄土教では煩悩のけがれを離れたきよらかな世界である浄土(涅槃) の[[四徳]]として、もろもろの楽しみが常で、苦しみがまじわらないところの意として「[[極楽]]」と呼称した。
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常・楽・我・浄とは、大乗仏教で、仏及び涅槃の境涯を示す語である。特に浄土教では煩悩のけがれを離れたきよらかな世界である浄土(涅槃) の[[四徳]]として、もろもろの楽しみが常で、苦しみがまじわらないところの意として「[[極楽]]」と呼称した。
  
 
そもそも釈尊は[[四諦]]を説き、この世は無常、苦、無我、不浄であると説かれた。いわゆる[[四顛倒]]である。これが諸行無常・一切皆苦・諸法無我という仏教の旗印である。<br />
 
そもそも釈尊は[[四諦]]を説き、この世は無常、苦、無我、不浄であると説かれた。いわゆる[[四顛倒]]である。これが諸行無常・一切皆苦・諸法無我という仏教の旗印である。<br />
この意を、浄土の徳として、
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この[[四顛倒]]を、浄土のさとりの徳をあらわす[[四徳]]として、
 
:常 - 仏や涅槃の境涯は、常住で永遠に不滅不変である
 
:常 - 仏や涅槃の境涯は、常住で永遠に不滅不変である
 
:楽 - 仏や涅槃の境涯は、人間の苦を離れたところに真の安楽がある
 
:楽 - 仏や涅槃の境涯は、人間の苦を離れたところに真の安楽がある
 
:我 - 仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
 
:我 - 仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
 
:浄 - 仏や涅槃の境涯は、煩悩を離れ浄化された清浄な世界である
 
:浄 - 仏や涅槃の境涯は、煩悩を離れ浄化された清浄な世界である
としてあらわしたのが『涅槃経』であった。
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とあらわしたのが大乗の『大般涅槃経』であった。
この涅槃(浄土)の徳に着目されたのが御開山であった。それが「真仏・真土巻」で展開される浄土であった。
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この涅槃(浄土)の徳に着目されたのが御開山であり、それが「真仏・真土巻」で展開される[[無為涅槃]]の界(さかい)である[[浄土]]である。<br />
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「真仏真土巻」での御開山の引文。
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:→[[真巻#no12|常 真巻 P.344]]
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:→[[真巻#no13|楽 真巻 P.345]]
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:→[[真巻#no14|浄 真巻 P.346]]
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なお→[[hwiki:大般涅槃経/3#taiga|徳王菩薩品]]の「大我」は引文されておられない。
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2018年4月9日 (月) 04:00時点における版

じょうらくがじょう

 常住にして移り変わりがなく、安らかで楽しみが充ち足り、自在で他に縛られず、煩悩のけがれがないこと。涅槃にそなわる四種の徳。→四徳(しとく) (真巻 P.354化巻 P.408)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

常・楽・我・浄とは、大乗仏教で、仏及び涅槃の境涯を示す語である。特に浄土教では煩悩のけがれを離れたきよらかな世界である浄土(涅槃) の四徳として、もろもろの楽しみが常で、苦しみがまじわらないところの意として「極楽」と呼称した。

そもそも釈尊は四諦を説き、この世は無常、苦、無我、不浄であると説かれた。いわゆる四顛倒である。これが諸行無常・一切皆苦・諸法無我という仏教の旗印である。
この四顛倒を、浄土のさとりの徳をあらわす四徳として、

常 - 仏や涅槃の境涯は、常住で永遠に不滅不変である
楽 - 仏や涅槃の境涯は、人間の苦を離れたところに真の安楽がある
我 - 仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
浄 - 仏や涅槃の境涯は、煩悩を離れ浄化された清浄な世界である

とあらわしたのが大乗の『大般涅槃経』であった。 この涅槃(浄土)の徳に着目されたのが御開山であり、それが「真仏・真土巻」で展開される無為涅槃の界(さかい)である浄土である。
「真仏真土巻」での御開山の引文。

常 真巻 P.344
楽 真巻 P.345
浄 真巻 P.346

なお→徳王菩薩品の「大我」は引文されておられない。