「聞信」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
8行目: | 8行目: | ||
:仏言広大勝解者 是人名分陀利華 | :仏言広大勝解者 是人名分陀利華 | ||
::仏、広大勝解のひととのたまへり。この人を[[分陀利華]]と名づく。([[行巻#P--204|行巻 P.204]]) | ::仏、広大勝解のひととのたまへり。この人を[[分陀利華]]と名づく。([[行巻#P--204|行巻 P.204]]) | ||
− | + | と「聞信」とある。この意を『尊号真像銘文』で、 | |
+ | :一切の善人も悪人も、如来の本願を[[聞信]]すれば、釈尊はこのひとを「広大勝解のひと」(如来会・下)なりといひ、また「分陀利華」(観経)にたとへ、あるいは「上上人」(散善義)なりとも、「希有人」(同)なりともほめたまへり。 | ||
+ | とされておられた。 | ||
+ | |||
+ | 浄土真宗のおける聞<sub>レ</sub>信とは、信を聞くことであり、阿弥陀如来の必ず摂取する決定摂取の信を聞くことである。信は和語では〔まこと〕や〔まかせる〕の意味があり、阿弥陀仏の衆生「[[済度]]」の信(まこと)の意味を聞くことや「[[本願]]」の真実にまかせるという意である。[http://www.kanjipedia.jp/kanji/0003599100 信]<br /> | ||
御開山や蓮如上人はその「真実にまかせる」を和語で〔たのむ(憑)〕と示して下さったのである。御開山が自然法爾の御書で、 | 御開山や蓮如上人はその「真実にまかせる」を和語で〔たのむ(憑)〕と示して下さったのである。御開山が自然法爾の御書で、 | ||
:弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。([[正像末和讃#P--621|正像 P.621]]) | :弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。([[正像末和讃#P--621|正像 P.621]]) |
2018年10月18日 (木) 17:52時点における版
もん-しん
『正信念仏偈』に、
と「聞信」とある。この意を『尊号真像銘文』で、
- 一切の善人も悪人も、如来の本願を聞信すれば、釈尊はこのひとを「広大勝解のひと」(如来会・下)なりといひ、また「分陀利華」(観経)にたとへ、あるいは「上上人」(散善義)なりとも、「希有人」(同)なりともほめたまへり。
とされておられた。
浄土真宗のおける聞レ信とは、信を聞くことであり、阿弥陀如来の必ず摂取する決定摂取の信を聞くことである。信は和語では〔まこと〕や〔まかせる〕の意味があり、阿弥陀仏の衆生「済度」の信(まこと)の意味を聞くことや「本願」の真実にまかせるという意である。信
御開山や蓮如上人はその「真実にまかせる」を和語で〔たのむ(憑)〕と示して下さったのである。御開山が自然法爾の御書で、
- 弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。(正像 P.621)
と、「南無阿弥陀仏とたのませたまひて」という意であった。なんまんだぶと称えることは、阿弥陀仏の本願にうちまかせている
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ