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「性徳」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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しょうとく
 
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一般に性徳 ・修徳、または自性得・人功得、などと、天台宗では徳の字を用いる。衆生が本性として備えている先天的能力を性徳、修行によって得る後天的な能力を修徳という。
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浄土門は修徳の所で性徳を談ずるが、聖道門は性徳の所で修徳を論じている。即ち浄土門で真如、法性、一如を談ずる場合は常に三厳の果徳、光寿二無量の妙果、名号に於てであって、これ修徳に於て性徳を談ずる立場である。これに対して聖道門では例えば天台に於て十界三千の諸法の互具互融を一念介爾の妄心に於て語っている如く、自心の性徳の上に一切の法門が具せられていると見ている。これ性徳に於て修徳を語る立場である。
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2019年11月11日 (月) 09:46時点における最新版

しょうとく

 性徳修徳

一般に性徳修徳、または自性得・人功得、などといい、天台宗では徳の字を用いる。衆生が本性として備えている先天的能力を性徳、修行によって得る後天的な能力を修徳という。 (仏教学辞典)

このように聖道門では自己の自性清浄である性徳の上において、これを照らし出す精進努力の修徳を語る。客塵煩悩のように、自らの修行に依って煩悩がはらわれるとする。

浄土門では、阿弥陀如来の因位兆載永劫の修行の修徳の上での本願成就の性徳を語る。 阿弥陀如来の五劫兆載永劫修徳の上で成就した性徳真如法性一如)を論じるのである。
そして虚妄分別心が、真如という性徳に背反していることを痴無明といい、阿弥陀如来の本願という修徳(誓願一仏乗)を受けいれないことを本願疑惑というのである。
いいかえれば、根本無明(痴無明)は煩悩とともに死ぬまでありつづけるが、本願に対する疑い(疑無明)がはれたとき浄土往生は定まり生死に迷うことはなくなるのである。これを真宗独自の「痴無明、疑無明」説という。→称名破満の釈義

そもそも仏教における悪とは戒律に背くことでありそれを罪とするのだが、御開山は本願成就の修徳の顕現である阿弥陀仏の性徳である阿弥陀仏の智慧を疑うことが根本的な罪であるとされた。
それは、善因楽果、悪因苦果の自業自得の道理のみを信じて、仏智である阿弥陀仏の善悪平等の衆生済度の因果を領解しない信罪福心であった。

御開山が、疑いを誡める「誡疑讃」で、

(60)

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり (正像 P.610)

{--中略--}
(82

仏智うたがふつみふかし
 この心おもひしるならば
 くゆるこころをむねとして
 仏智の不思議をたのむべし (正像 P.614)
以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせるなり。

と「仏智うたがふつみふかし」とせられた所以である。

無明
疑情
凡数の摂