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『浄土真宗聖典全書』聖教データベース]より転載。原文→ノート:西方指南抄
『西方指南抄』の題号は『選択本願念仏集』後述の「善導『観経疏』者是西方指南行者目足也(善導の『観経の疏』はこれ西方の指南、行者の目足なり)」に依るとされる。
西方指南抄上[本]
(一)
法然聖人御説法事
経証の中に、仏の功徳をとけるに无量の身あり。あるいは総じて一身をとき、あるいは二身をとき、あるいは半三身[1]をとき、乃至『華厳経』には十身[2]功徳とけり。いま次に化身といふは、无而欻有を化といふ。すなわち機にしたがふときに応じて身量を現ずること、大小不同なり。『経』(観経)に、「あるいは大身を現じて虚空にみつ、あるいは小身を現じて丈六、八尺」といへり。化身につきて多種あり。まづ円光の化仏。『経』(観経)にいはく、「円光のなかにおいて、百万億那由他恒河沙の化仏まします。一一の化仏に衆多无数の化菩薩をもて、侍者とせり」といへり。つぎに摂取不捨の化仏。「光明徧照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」 「隠/顕」
いまこの造立せられたまへる仏は、祇園精舎の風[6]をつたへて三尺の立像をうつし、最後終焉のゆふべを
次に道の先達のために来迎したまふといへり。あるいは『往生伝』(往生浄土伝巻中)に、沙門志法が遺書にいはく、
- 「我在生死海 幸値聖船筏 我所顕真聖 来迎卑穢質
- 若忻求浄土 必造画形像 臨終現其前 示道路摂心
- 念念罪漸尽 随業生九品 其所顕聖衆 先讚新生輩
- 仏道楽増進」「隠/顕」我れ生死海にありて幸いに聖船筏にもうあえり。我があらわすところの真聖、卑穢の質を来迎したまう。もし浄土を欣求せば必ず形像を造画すべし。臨終に其の前に現じて道路を示さん、心を摂して念念すれば罪ようやく尽く、業に随いて九品に生ぜむ。其れ顕はすところの聖衆、さきだちて新生の輩(ともがら)をほむ、仏道の楽を増進せん。{云云}
これすなわち、この界にして造画するところの形像、先達となりて浄土におくりたまふ証拠なり。また『薬師経』(玄奘訳)をみるに、浄土をねがふともがら、行業いまださだまらずして、往生のみちにまどふことあり。すなわち文にいはく、「よく受持八分斎戒あらむ。あるいは一年をへ、あるいはまた三月受持せむ。まなぶところ、この善根をもて西方極楽世界无量寿仏のみもとにむまれむと願じて、正法を聴聞すれども、いまださだまらざるもの、もし世尊薬師瑠璃光如来の名号をきかむ。命終のときにのぞみて、八菩薩あて神通に乗じてきたりて、その道路をしめさむ。すなわちかの界にして、種種の雑色衆宝華の中に自然に化生す」[9]といへり。もしかの八菩薩その道路をしめさずは、ひとり往生することえがたきにや。これをもておもふにも、弥陀如来もろもろの聖衆とともに行者のまへに現じてきたりて迎接したまふも、みちびきて道路をしめしたまはむがためなりといふ義、まことにいはれたることなり。娑婆世界のならひも、みちをゆくにはかならず先達といふものを具する事なり。これによて御廟の僧正[10]は、この来迎の願おば現前導生の願となづけたまへり。
次に対治魔事のために来迎すといふ義あり。道さかりなれば、魔さかりなりとまふして、仏道修行するには、かならず魔の障難のあひそふなり。真言宗の中には、「誓心決定すれば、魔宮振動す」(発菩提心論)といへり。天台『止観』(巻八下意)の中には、「四種三昧を修行するに、十種の境界おこる中に魔事境来」といへり。また菩薩、三祇百劫の行すでになりて正覚をとなふるときも、第六天の魔王きたりて種種に障㝵せり。いかにいはむや、凡夫具縛の行者、たとひ往生の行業を修すといふとも、魔の障難を対治せずは、往生の素懐をとげむことかたし。しかるに阿弥陀如来、无数の化仏・菩薩聖衆に囲繞せられて、光明赫奕として行者のまへに現じたまふときには、魔王もこゝにちかづき、これを障㝵することあたはず。しかればすなわち、来迎引接は魔障を対治せむがためなり。来迎の義、略を存ずるにかくのごとし。これらの義につきておもひ候にも、おなじく仏像をつくらむには、来迎の像をつくるべきとおぼえ候なり。仏の功徳、大概かくのごとし。
次に三部経は、いま三部経となづくることは、はじめてまふすにあらず、その証これおほし。いはく大日三部経は、『大日の経』・『金剛頂経』・『蘇悉地経』等これなり。弥勒の三部経、『上生経』・『下生経』・『成仏経』等これなり。鎮護国家の三部経は、『法華経』・『仁王経』・『金光明経』等これなり。法華の三部経、『无量義経』・『法華経』・『普賢経』等これなり。これすなわち、三部経となづくる証拠なり。いまこの弥陀の三部経は、ある人師のいはく、「浄土の教に三部あり。いはく『双巻无量寿経』・『観无量寿経』・『阿弥陀経』等これなり」。これによて、いま浄土の三部経となづくるなり。あるいはまた弥陀の三部経ともなづく。またある師のいはく、「かの三部経に『鼓音声経』をくわえて四部となづく」(慈恩小経疏意)といへり。おほよそ諸経の中に、あるいは往生浄土の法をとくあり、あるいはとかぬ経あり。『華厳経』にはこれをとけり、すなわち『四十華厳』の中の普賢の十願これなり。『大般若経』の中にすべてこれをとかず。『法華経』(巻六)の中にこれをとけり、すなわち「薬王品」の「即往安楽世界」の文これなり。『涅槃経』にはこれをとかず。また真言宗の中には、『大日経』・『金剛頂経』に蓮華部にこれとくといゑども、大日の分身なり、別てとけるにはあらず。もろもろの小乗経にはすべて浄土をとかず。しかるに往生浄土をとくことは、この三部経にはしかず。かるがゆへに浄土の一宗には、この三部経をもてその所縁とせり。
またこの浄土の法門において宗の名をたつること、はじめてまふすにあらず、その証拠これおほし。少々これをいださば、元暁の『遊心安楽道』に、「浄土宗意、本為凡夫、兼為聖人也」といへる、その証なり。かの元暁は華厳宗の祖師なり。慈恩の『西方要決』に、「依此一宗」といえるなり、またその証なり。かの慈恩は法相宗の祖師なり。迦才の『浄土論』(序)には、「此一宗窃要路たり」といへる、またその証なり。善導『観経の疏』(散善義)に、「真宗叵遇」といへる、またその証なり。かの迦才・善導は、ともにこの浄土一宗をもはらに信ずる人なり。自宗・他宗の釈すでにかくのごとし。しかのみならず、宗の名をたつることは、天台・法相等の諸宗、みな師資相承による。しかるに浄土宗に師資相承血脈次第あり。いはく菩提流支三蔵・恵寵法師・道場法師・曇鸞法師・法上法師・道綽禅師・善導禅師・懐感禅師・小康法師等なり。菩提流支より法上にいたるまでは、道綽の『安楽集』にいだせり。自他宗の人師、すでに浄土一宗となづけたり。浄土宗の祖師、また次第に相承せり。これによて、いま相伝して浄土宗となづくるものなり。しかるを、このむねをしらざるともがらは、むかしよりいまだ八宗のほかに浄土宗といふことをきかずと難破することも候へば、いさゝかまふしひらき候なり。おほよそ諸宗の法門、浅深あり、広狭あり。すなわち真言・天台等の諸大乗宗は、ひろくしてふかし。倶舎・成実等の小乗宗は、ひろくしてあさし。この浄土宗は、せばくしてあさし。しかれば、かの諸宗は、いまのときにおいて機と教と相応せず。教はふかし機はあさし。教はひろくして機はせばきがゆへなり。たとへば韻たかくしては、和することすくなきがごとし。またちゐさき器に大なるものをいるゝがごとし。たゞこの浄土の一宗のみ、機と教と相応せる法門なり。かるがゆへにこれを修せば、かならず成就すべきなり。しかればすなわち、かの不相応の教においては、いたはしく身心をついやすことなかれ。たゞこの相応の法に帰して、すみやかに生死をいづべきなり。
次に『阿弥陀経』は、はじめには極楽世界の依正二報をとく、次には一日七日の念仏を修して往生することをとけり、のちには六方の諸仏念仏の一行において証誠護念したまふむねをとけり。すなわちこの『経』には余行をとかずして、えらびて念仏の一行をとけり。{乃至}おほよそ念仏往生は、これ弥陀如来の本願の行なり、教主釈尊選要の法なり、六方諸仏証誠の説なり。余行はしからず。そのむね、『経』の文および諸師の釈つぶさなり。{乃至}
また経を釈するに、仏の功徳もあらはれ、仏を讚ずれば、経の功徳もあらわるゝなり。また疏は経のこゝろを釈したるものなれば、疏を釈せむに、経のこゝろあらはるべし。みなこれおなじものなり、まちまちに釈するにあたはず。{乃至}
いまこの『観无量寿経』に二のこゝろあり。はじめには定散二善を修して往生することをあかし、つぎには名号を称して往生することをあかす。{乃至}『清浄覚経』(巻四意)の信不信の因縁の文をひけり。この文のこゝろは、「浄土の法門をとくをきゝて、信向してみのけいよだつものは、過去にもこの法門をきゝて、いまかさねてきく人なり。いま信ずるがゆへに、決定して浄土に往生すべし。またきけどもきかざるがごとくにて、すべて信ぜぬものは、はじめて三悪道よりきたりて、罪障いまだつきずして、こゝろに信向なきなり。いま信ぜぬがゆへに、また生死をいづることあるべからず」といへるなり。詮ずるところは、往生人のこの法おば信じ候なり。{乃至}
天台等のこゝろは、十三観の上に九品の三輩観をくわへて、十六想観となづく。この定散二善をわかちて、十三観を定善となづけ、三福九品を散善となづくることは、善導一師の御こゝろなり。{乃至}
次に名号を称して往生することをあかすといふは、「仏、阿難につげたまはく、なんぢよくこの語をたもて。この語たもてといふは、すなわちこれ无量寿仏のみなをたもてとなり」(観経)とのたまへり。善導これを釈していはく、「仏告阿難汝好持是語といふより已下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することをあかす。かみよりこのかた、定散両門の益とくといゑども、仏の本願をのぞむには、こゝろ、衆生をして一向にもはら弥陀仏のみなを称するにあり」(散善義)とのたまへり。おほよそこの『経』の中には、定散の諸行をとくといゑども、その定散をもては付属したまはず、たゞ念仏の一行をもて阿難に付属して、未来に流通するなり。「遐代に流通す」といふは、はるかに法滅の百歳までをさす。すなわち末法万年ののち、仏法みな滅して三宝の名字もきかざらむとき、たゞこの念仏の一行のみとゞまりて百歳ましますべしとなり。しかれば、聖道門の法文もみな滅し、十方浄土の往生もまた滅し、上生都率もまたうせ、諸行往生もみなうせたらむとき、たゞこの念仏往生の一門のみとゞまりて、そのときも一念にかならず往生すべしといへり。かるがゆへにこれをさして、とおき世とはいふなり。これすなわち遠をあげて、近を摂するなり。「仏の本願をのぞむ」といふは、弥陀如来の四十八願の中の第十八の願をおしふるなり。いま教主釈尊、定散二善の諸行をすてゝ念仏の一行を付属したまふことも、弥陀の本願の行なるがゆへなり。「一向専念」といふは、『双巻経』にとくところの三輩のもんの中の一向専念をおしふるなり。一向のことば、余をすつることばなり。この『経』には、はじめにひろく定散をとくといゑども、のちには一向に念仏をえらびて付属し流通したまへるなり。しかれば、とおくは弥陀の本願にしたがひ、ちかくは釈尊の付属をうけむとおもはゞ、一向に念仏の一行を修して往生をもとむべきなり。
又云、仏の功徳は百千万劫のあひだ、昼夜にとくともきわめつくすべからず。これによて、教主釈尊、かの阿弥陀仏の功徳を称揚したまふにも、要の中の要をとりて、略してこの三部妙典をときたまへり。仏すでに略したまへり、当座の愚僧いかゞくはしくするにたえむ。たゞ善根成就のために、かたのごとく讚嘆したてまつるべし。阿弥陀如来の内証外用の功徳无量なりといゑども、要をとるに、名号の功徳にはしかず。このゆへにかの阿弥陀仏も、ことにわが名号をして衆生を済度し、また釈迦大師も、おほくかのほとけの名号をほめて未来に流通したまへり。
しかれば、いまその名号について讚嘆したてまつらば、阿弥陀といふは、これ天竺の梵語なり。こゝには翻訳して无量寿仏といふ。また无量光といへり。または无辺光仏・无㝵光仏・无対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・无称光仏・超日月光仏といへり。こゝにしりぬ、名号の中に光明と寿命との二の義をそなえたりといふことを。かの仏の功徳の中には、寿命を本とし、光明をすぐれたりとするゆへなり。しかれば、また光明・寿命の二の功徳をほめたてまつるべし。
- ↑ 半三身。◇半には分けるといふ意味もあり、法身・報身と応身(化身)に分けるので半三身というか。
- ↑ 華厳経に、仏・菩薩(ぼさつ)の得る十種の仏身。衆生身・国土身・業報身・声聞身・縁覚身・菩薩身・如来身・智身・法身・虚空身を解境の十仏、正覚仏・願仏・業報仏・住持仏・化仏・法界仏・心仏・三昧仏・性仏・如意仏を行境の十仏という。
- ↑ 修因感果(しゅいんかんか) ◇因を修して果を感ず。善の因を修し、その各々の業力の作用により応ずべき果を感得すること。ここでは法蔵菩薩の修因感果を指す。
- ↑ 即ち生じ乃至三生に必ず往生を『得。◇『漢語灯録』には「造佛功德即決定往生業因次生及三生必得往生也(造仏の功徳は即ち決定往生の業因なり、次生及び三生には必ず往生を得る也)」とある。
- ↑ 智光の曼陀羅。◇奈良の元興寺に伝わる智光が感得したという曼荼羅の図像に基づいて作られた浄土曼荼羅の総称。
- ↑ 風(ふ)。おもむき、様子。
- ↑ おもはく。思うことには。思ふのク用法。
- ↑ 静照(~1003)の『四十八願釈』の第十九願の解釈に「雖聞称名 皆得往生。然命終時 心多顛倒。弘誓大悲 不得晏然 故与大衆 現其人前。」(称名を聞きて皆な往生すといえども、しかるに命終の時、心おおく顛倒す。弘誓の大悲、晏然(あんぜん:安らかで落ち着いた様子)たるを得ざるが故に、大衆とともに其の人の前に現ず。)『四十八願釈』とある。
- ↑
『薬師琉璃光如来本願功徳経』に「復次に曼殊室利よ、若し四衆の苾芻(びっしゅ:比丘)・苾芻尼(びっしゅに:比丘尼)・鄔波索迦(うばそか:優婆塞)・鄔波斯迦(うばしか:優婆夷)、及び余の浄信の善男子・善女人等有りて、能く八分斎戒を受持すること、或は一年を経、或は復三月、学処を受持すること有らん。
此の善根を以て、西方極楽世界 無量寿仏の所に生れて、正法を聴聞せんことを願い未だ定まらざる者、若し世尊、薬師瑠璃光如来の名号を聞かば、命終の時に臨んで八大菩薩有り、其の名を文殊師利菩薩・観世音菩薩・得大勢菩薩・無尽意菩薩・宝檀華菩薩・薬王菩薩・薬上菩薩・弥勒菩薩と曰う。 八大菩薩は空に乗じて来りて其の道路を示し、即ち彼の界、種種の雑色の衆の寳華の中に於て、自然に化生せん。 [1] とある。 - ↑ 御廟の僧正。◇源信僧都の師、慈恵大師良源。良源僧正は第十九願をもって浄土往生の願とされた。参考:「良源僧正は、第十八願は五逆と誹謗を犯していない凡夫の往生を誓った願であるが、その往生業は深妙ではないから臨終の来迎が誓われていない。それに引き替え第十九願に臨終来迎が誓われているのは、菩提心を発し、諸の功徳を修した勝れた行者であるからであって、当然第十八顧より第十九願の方が深妙な往生業が誓われている。」という。(梯實圓和上『顕浄土方便化身土文類講讃』より) →三生果遂
- ↑ この文は下品上生にある文。