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「無住処涅槃」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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 住は所住の意で、住する処(所) を意味する。従って無住とは固定的な状態を否定する意である。[[無住処涅槃]]とは、[[智慧]]によって[[煩悩障]]と[[所知障]]とを離れているから[[生死]](迷いの世界)にも停滞せず、しかも[[大悲]]をもって衆生を救済するために迷いの世界の中で活動するから[[涅槃]]の境地にもとどまらないことをいう。<br />
 
 住は所住の意で、住する処(所) を意味する。従って無住とは固定的な状態を否定する意である。[[無住処涅槃]]とは、[[智慧]]によって[[煩悩障]]と[[所知障]]とを離れているから[[生死]](迷いの世界)にも停滞せず、しかも[[大悲]]をもって衆生を救済するために迷いの世界の中で活動するから[[涅槃]]の境地にもとどまらないことをいう。<br />
これを、智慧有るが故に生死に住せず、慈悲有るが故に涅槃に住せず、といい、涅槃にありながら涅槃を超えているから[[無住処涅槃]]という。菩薩の総願である[[四弘誓願]]には「衆生無辺誓願度(一切の衆生をさとりの岸にわたそうと誓う。)」とあり、この誓願が本当に発(おこ)るならあらゆる衆生と連帯していこうと願う菩薩は生死にありながら生死を超えているのであった。『論註』で「実相を知るをもつてのゆゑに、すなはち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄なるを知れば、すなはち真実の慈悲を生ずるなり。」([[浄土論註 (七祖)#no104|論註 P.143]]) と示す所以である。<br />
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これを、{{WavyUL|智慧有るが故に生死に住せず、慈悲有るが故に涅槃に住せず}}、といい、涅槃にありながら涅槃を超えているから[[無住処涅槃]]という。菩薩の総願である[[四弘誓願]]には「衆生無辺誓願度(一切の衆生をさとりの岸にわたそうと誓う。)」とあり、この誓願が本当に発(おこ)るならあらゆる衆生と連帯していこうと願う菩薩は生死にありながら生死を超えているのであった。『論註』で
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:「[[実相]]を知るをもつてのゆゑに、すなはち[[三界]]の[[衆生]]の[[虚妄]]の[[相]]を知るなり。衆生の虚妄なるを知れば、すなはち真実の慈悲を生ずるなり。」([[浄土論註 (七祖)#no104|論註 P.143]])  
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と示す所以である。<br />
 
御開山は『涅槃経』の如来常住をあらわす「不畢竟涅槃(畢竟涅槃せず)」の文を、[[畢竟涅槃にあらざる]]([[真巻#P--348|真巻 P.348]])、と訓じられたのも[[無住処涅槃]]の意を顕わそうとされたのであろう。この[[無住処涅槃]]が浄土真宗における涅槃であり、衆生が往生し弥陀同体のさとりを得て後の[[還相]]の利益のすがたを示す淵源であった。御開山が「証文類」の総結で「還相の利益は利他の正意を顕すなり」([[証巻#P--335|証巻 P.335]]) と示される所以である。
 
御開山は『涅槃経』の如来常住をあらわす「不畢竟涅槃(畢竟涅槃せず)」の文を、[[畢竟涅槃にあらざる]]([[真巻#P--348|真巻 P.348]])、と訓じられたのも[[無住処涅槃]]の意を顕わそうとされたのであろう。この[[無住処涅槃]]が浄土真宗における涅槃であり、衆生が往生し弥陀同体のさとりを得て後の[[還相]]の利益のすがたを示す淵源であった。御開山が「証文類」の総結で「還相の利益は利他の正意を顕すなり」([[証巻#P--335|証巻 P.335]]) と示される所以である。
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:→[[大般涅槃]]
 
:→[[畢竟涅槃にあらざる]]
 
:→[[畢竟涅槃にあらざる]]
 
:→[[生死即涅槃]]
 
:→[[生死即涅槃]]

2023年5月15日 (月) 16:23時点における版

むじゅうしょ-ねはん

 住は所住の意で、住する処(所) を意味する。従って無住とは固定的な状態を否定する意である。無住処涅槃とは、智慧によって煩悩障所知障とを離れているから生死(迷いの世界)にも停滞せず、しかも大悲をもって衆生を救済するために迷いの世界の中で活動するから涅槃の境地にもとどまらないことをいう。
これを、智慧有るが故に生死に住せず、慈悲有るが故に涅槃に住せず、といい、涅槃にありながら涅槃を超えているから無住処涅槃という。菩薩の総願である四弘誓願には「衆生無辺誓願度(一切の衆生をさとりの岸にわたそうと誓う。)」とあり、この誓願が本当に発(おこ)るならあらゆる衆生と連帯していこうと願う菩薩は生死にありながら生死を超えているのであった。『論註』で

実相を知るをもつてのゆゑに、すなはち三界衆生虚妄を知るなり。衆生の虚妄なるを知れば、すなはち真実の慈悲を生ずるなり。」(論註 P.143)

と示す所以である。
御開山は『涅槃経』の如来常住をあらわす「不畢竟涅槃(畢竟涅槃せず)」の文を、畢竟涅槃にあらざる(真巻 P.348)、と訓じられたのも無住処涅槃の意を顕わそうとされたのであろう。この無住処涅槃が浄土真宗における涅槃であり、衆生が往生し弥陀同体のさとりを得て後の還相の利益のすがたを示す淵源であった。御開山が「証文類」の総結で「還相の利益は利他の正意を顕すなり」(証巻 P.335) と示される所以である。

大般涅槃
畢竟涅槃にあらざる
生死即涅槃

参照WEB版浄土宗大辞典の「無余涅槃・有余涅槃」の項目