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「仏作仏行」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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道元禅師は、座禅を仏がなさしめる仏の行だとして仏作仏行と言われた。<br />
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道元禅師は、座禅をしている相が悟りの相であるとし、座禅を仏がなさしめる仏の行だとして仏作仏行と言われた。<br />
 
それに対して[[浄土真宗]]の[[念仏]]は、[[第十七願]]の[[諸仏]]の「不悉咨嗟 称我名者」(ことごとく[[咨嗟]]して、わが名を称せずは) の[[讃嘆]]が[[衆生]]の[[讃嘆]]の[[大行]]の[[称名]]としてはたらいておられる[[仏作仏行]](仏のなす仏の行)とみるのである。<br />
 
それに対して[[浄土真宗]]の[[念仏]]は、[[第十七願]]の[[諸仏]]の「不悉咨嗟 称我名者」(ことごとく[[咨嗟]]して、わが名を称せずは) の[[讃嘆]]が[[衆生]]の[[讃嘆]]の[[大行]]の[[称名]]としてはたらいておられる[[仏作仏行]](仏のなす仏の行)とみるのである。<br />
 
元来、第十七願の「称我名者」の「称」は諸仏の[[称揚]]の意であるが、御開山はこれを、
 
元来、第十七願の「称我名者」の「称」は諸仏の[[称揚]]の意であるが、御開山はこれを、
:第十七の願に、「十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となへられん」と誓ひたまへる、一乗大智海の誓願成就したまへるによりてなり。(([[唯文#P--703|唯文 P.703]])
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:第十七の願に、「十方無量の諸仏にわがなをほめられん、{{ULR|となへられん}}」と誓ひたまへる、一乗大智海の誓願成就したまへるによりてなり。(([[唯文#P--703|唯文 P.703]])
と、「となへられん」と〔なんまんだぶ〕だとされておられた。仏のなす仏の行を行ずるから[[大行]]といふのである。
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と、「となへられん」と、称える〔なんまんだぶ〕だとされておられた。このように「称我名者」の「称」に、「ほめられん」と「となへられん」の両義を見られて、仏のなす仏の行を行ずるから[[仏作仏行]]であり〔なんまんだぶ〕を[[大行]]といふのである。
 
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2024年3月12日 (火) 23:52時点における最新版

道元禅師は、座禅をしている相が悟りの相であるとし、座禅を仏がなさしめる仏の行だとして仏作仏行と言われた。
それに対して浄土真宗念仏は、第十七願諸仏の「不悉咨嗟 称我名者」(ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは) の讃嘆衆生讃嘆大行称名としてはたらいておられる仏作仏行(仏のなす仏の行)とみるのである。
元来、第十七願の「称我名者」の「称」は諸仏の称揚の意であるが、御開山はこれを、

第十七の願に、「十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となへられん」と誓ひたまへる、一乗大智海の誓願成就したまへるによりてなり。((唯文 P.703)

と、「となへられん」と、称える〔なんまんだぶ〕だとされておられた。このように「称我名者」の「称」に、「ほめられん」と「となへられん」の両義を見られて、仏のなす仏の行を行ずるから仏作仏行であり〔なんまんだぶ〕を大行といふのである。