「仏性」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | :[[惑染]] | + | : しかれば如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。[[惑染]]の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。……ゆゑに知んぬ、安楽仏国に到れば、すなはちかならず仏性を顕す。本願力の回向によるがゆゑに。([[真巻#no37|真巻 P.371]]) |
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− | + | と、[[仏性]](果仏性)を「[[眼見]]」し確証できるのは安楽仏国に往生してからであるとされていた。此土では[[聴聞]]によって自らの仏性(因仏性)を「[[聞見]]」するのである。これを信心仏性といふ。 | |
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梵語ブッダ・ダートゥ(buddha-dhātu)、ブッダ・ゴートラ(buddha-gotra)、またはブッダ・ター(buddha-tā)等の意訳。如来性・覚性などの意。 | 梵語ブッダ・ダートゥ(buddha-dhātu)、ブッダ・ゴートラ(buddha-gotra)、またはブッダ・ター(buddha-tā)等の意訳。如来性・覚性などの意。 | ||
− | + | 仏の本性、仏のさとりそのものの性質。また、仏になる可能性をいう。仏の性質を'''果仏性'''といい、仏になる可能性を'''因仏性'''という。大乗仏教では一般に、一切衆生はすべてこの性質を有しているとする。 | |
『涅槃経』に | 『涅槃経』に | ||
:「[[究竟畢竟]]は一切衆生得るところの[[一乗]]なり。[[一乗]]は名づけて仏性とす。この義をもつてのゆゑに、われ'''[[一切衆生悉有仏性]]'''と説くなり」([[行巻#P--196|行巻引文・註196]]) | :「[[究竟畢竟]]は一切衆生得るところの[[一乗]]なり。[[一乗]]は名づけて仏性とす。この義をもつてのゆゑに、われ'''[[一切衆生悉有仏性]]'''と説くなり」([[行巻#P--196|行巻引文・註196]]) |
2024年6月19日 (水) 16:03時点における最新版
ぶっしょう
梵語ブッダ・ダートゥ(buddha-dhātu)の漢訳。
大乗仏教では一般に、
浄土真宗では、往生成仏は阿弥陀如来の本願力によるとするから、如来が衆生に与えられた信心を仏性とする。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
「真巻」真仏土決釈には、
と、仏性(果仏性)を「眼見」し確証できるのは安楽仏国に往生してからであるとされていた。此土では聴聞によって自らの仏性(因仏性)を「聞見」するのである。これを信心仏性といふ。
- →如来蔵
ぶっしょう 仏性
梵語ブッダ・ダートゥ(buddha-dhātu)、ブッダ・ゴートラ(buddha-gotra)、またはブッダ・ター(buddha-tā)等の意訳。如来性・覚性などの意。 仏の本性、仏のさとりそのものの性質。また、仏になる可能性をいう。仏の性質を果仏性といい、仏になる可能性を因仏性という。大乗仏教では一般に、一切衆生はすべてこの性質を有しているとする。 『涅槃経』に
と説かれている。浄土真宗では、往生成仏は阿弥陀仏の本願力によるとするから、如来が衆生に与えた信心を仏性とする。『唯信鈔文意』には
とある。(浄土真宗辞典)
御開山は「諸経和讃」で、
と、願力回向の大信心は仏性であるとされていた。
なお国宝本の和讃では、
- 歡喜信心無疑者をば、
- 與諸如來ととく
- 大信心は佛性なり
- 佛性すなはち如来なり
とあり、意味は同じである。
この句は、『華厳経』(晋訳)「入法界品」の結論である、
と、『涅槃経』「師子吼品」の、
- 一切衆生 畢定 当得大信心故。
- 一切衆生は、つひにさだめてまさに大信心を得べきをもつてのゆゑに。
- 是故説言 一切衆生悉有仏性。
- このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。
- 大信心者 即是仏性 仏性者即是如来。
- 大信心はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり。(信巻 P.237)で引文
に拠られたものである。『涅槃経』と『華厳経』を引くことで、いわゆる天台の「五時教判」の最初の華厳時と最後の涅槃時を挙げ全仏教を俯瞰しておられたのであろう。
参照➡WEB版浄土宗大辞典の「仏性」の項目