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「三信」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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さんしん
 
さんしん
  
Ⅰ 『大経』[[第十八願]]文に、<ruby><rb>衆生往生</rb><rp>(</rp><rt>しゅじょうおうじょう</rt><rp>)</rp></ruby>の因として誓った<ruby><rb>[[至心]]</rb><rp>(</rp><rt>ししん</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>[[信楽]]</rb><rp>(</rp><rt>しんぎょう</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>[[欲生]]</rb><rp>(</rp><rt>よくしょう</rt><rp>)</rp></ruby>を三信という。[[三心]]ともいう。
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Ⅰ 『大経』[[第十八願]]文に、<kana>衆生往生(しゅじょうおうじょう)</kana>の因として誓った<kana>[[至心]](ししん)</kana>・<kana>[[信楽]](しんぎょう)</kana>・<kana>[[欲生]](よくしょう)</kana>を三信という。[[三心]]ともいう。
  
Ⅱ 『論註』や『安楽集』であらわされた信心の三相で<ruby><rb>不淳</rb><rp>(</rp><rt>ふじゅん</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>不一</rb><rp>(</rp><rt>ふいつ</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>不相続</rb><rp>(</rp><rt>ふそうぞく</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>三不信</rb><rp>(</rp><rt>さんぷさんしん</rt><rp>)</rp></ruby>に対する。
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Ⅱ 『論註』や『安楽集』であらわされた信心の三相で<kana>不淳(ふじゅん)</kana>・<kana>不一(ふいつ)</kana>・<kana>不相続(ふそうぞく)</kana>の<kana>三不信(さんぷさんしん)</kana>に対する。。([[二門#P--549|二門 P.549]])
  
:①<ruby><rb>淳心</rb><rp>(</rp><rt>じゅんしん</rt><rp>)</rp></ruby>。淳厚、淳朴でかざりけのない心。信心の純朴さをあらわす。
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:①<kana>淳心(じゅんしん)</kana>。淳厚、淳朴でかざりけのない心。信心の純朴さをあらわす。
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:③<kana>相続心(そうぞくしん)</kana>。自力の思いを<kana>雑(まじ)</kana>えず、ただ阿弥陀仏の救いを念ずる信が相続すること。
  
 
 【左訓】「本願の信心をいふなり」(異本)([[高僧和讃#P--592|高僧 P.592]])
 
 【左訓】「本願の信心をいふなり」(異本)([[高僧和讃#P--592|高僧 P.592]])

2017年11月7日 (火) 08:16時点における最新版

さんしん

Ⅰ 『大経』第十八願文に、衆生往生(しゅじょうおうじょう)の因として誓った至心(ししん)信楽(しんぎょう)欲生(よくしょう)を三信という。三心ともいう。

Ⅱ 『論註』や『安楽集』であらわされた信心の三相で不淳(ふじゅん)不一(ふいつ)不相続(ふそうぞく)三不信(さんぷさんしん)に対する。。(二門 P.549)

淳心(じゅんしん)。淳厚、淳朴でかざりけのない心。信心の純朴さをあらわす。
一心(いっしん)決定(けつじょう)して疑いのない心。
相続心(そうぞくしん)。自力の思いを(まじ)えず、ただ阿弥陀仏の救いを念ずる信が相続すること。

 【左訓】「本願の信心をいふなり」(異本)(高僧 P.592)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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