「いま…かくのごとし」の版間の差分
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− | + | : 阿弥陀仏の本願はかくのごとし、「もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得」と。このゆゑにつねに憶念すべし。 ([[十住毘婆沙論_(七祖)#no9|十住毘婆沙論P.14]]) | |
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:〈もし人、われを念じ名を称しておのづから帰すれば、すなはち'''[[必定]]'''に入りて[[阿耨多羅三藐三菩提]]を得、このゆゑにつねに[[憶念]]すべし〉と。 ([[行巻#P--153|行巻P.153]]) | :〈もし人、われを念じ名を称しておのづから帰すれば、すなはち'''[[必定]]'''に入りて[[阿耨多羅三藐三菩提]]を得、このゆゑにつねに[[憶念]]すべし〉と。 ([[行巻#P--153|行巻P.153]]) | ||
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− | + | : 今、詳しく無量寿仏について説こう。世自在王仏をはじめ、その他の仏がたもおられるが、これらの仏がたは、現にすべての清らかな世界において、みな阿弥陀仏の名号を称え、その本願を念じておられることは、以下の通りである。すなわち、阿弥陀仏の本願には、<もし人が、わたしの名を称え、他力の信心を得るなら、ただちに必定の位に入り、この上ないさとりを得ることができる>と誓われている。 | |
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+ | 御開山は原文の、世自在王仏から後の105仏を「乃至有其余仏(乃至その余の仏まします)」として省略されておられる。そして訓点を替えられて、原文では、衆生は十方清浄世界の諸仏の名を称し憶念すべしとある文を、「いままさにつぶさに無量寿仏を説くべし」と、無量寿仏を主体とされ、あらゆる諸仏は、みな〔なんまんだぶ〕と阿弥陀仏の名を称し阿弥陀仏の本願を憶念されている、と読み替えられた。この文に[[第十七願]]の「諸仏称揚」(諸仏の称名と憶念)と「選択称名」(衆生の憶念と称名)<ref>称は称揚でほめたたえる意でもあるが「行文類」の第十七願名に選択称名の願とあり、『唯信鈔文意』には〔第十七の願に、「十方無量の諸仏にわがなをほめられん、{{ULR|となへられん}}」と誓ひたまへる〕とあるところから、称の たたえる・かなう・はかる・ほめる・あげる・となえるの、となえるとみておられたことが判る。→[[称]]</ref> の意をみておられたのである。→[[称]]<br /> | ||
+ | このように読めたのは、法然聖人が『三部経大意』などで第十七願を、 | ||
:「その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり、第十七の願これなり。」[[三部経大意#観無量寿経|(三部経大意p.783)]] | :「その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり、第十七の願これなり。」[[三部経大意#観無量寿経|(三部経大意p.783)]] | ||
とされ、聖覚法印に執筆させたという「登山状」にも、 | とされ、聖覚法印に執筆させたという「登山状」にも、 | ||
− | : | + | :ねがはくはわれ十方諸仏に、ことことくこの願を称揚せられたてまつらんと、かくのことく思惟して、第十七の願に「設我得仏 十方無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」{{SHD|mk02|たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ}}とちかひ給ひて、つきに第十八願に「乃至十念、若不生者、不取正覚」{{SHD|mk03|すなわち十念に至るまでせん。もし生まれずは、正覚を取らじ。}}、とちかひ給へり。 [[hwiki:拾遺語灯録中#P--721|(拾遺語灯録中p.721)]] |
と示された意を承けられているのであった。聖覚法印にも | と示された意を承けられているのであった。聖覚法印にも | ||
− | : | + | :「まづ第十七に諸仏にわが名字を[[称揚]]せられんといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこころうべし。名号をもつてあまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆゑに、かつがつ[[名号]]をほめられんと誓ひたまへるなり。」([[唯信鈔#P--1341|唯信鈔p.1341]]) |
− | + | と、[[第十八願]]の「乃至十念」を第十七願にみておられる。御開山は、これらの意を承けて『阿弥陀経』の六法段──異訳の『称讃浄土経』では十方段──で、 | |
:「なんぢら衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃したまふ一切諸仏に護念せらるる経を信ずべし」([[小経#P--125|小経 P.125]]) | :「なんぢら衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃したまふ一切諸仏に護念せらるる経を信ずべし」([[小経#P--125|小経 P.125]]) | ||
− | + | という諸仏の[[称讃]]の意を『無量寿経』の第十七願の、 | |
:「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」([[大経上#17gan|大経 P.18]]) | :「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」([[大経上#17gan|大経 P.18]]) | ||
− | + | に於いて見られたのであった。そもそも第十七願は衆生ではなく、十方世界の無量の諸仏に誓われた願であったのだが、[[第十八願]]の「[[乃至十念]]」は心念ではなく声の称名であることを、諸仏の教位に於いて確認されたのである。なんまんだぶと称えることは諸仏の行に等しいので「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」([[行巻#no1|行巻p.141]]) と[[補註10|大行]](偉大な行)とされたのであった。これはまた明恵高弁が『摧邪輪莊嚴記』で、法然聖人の「念声是一釈」([[選択本願念仏集 (七祖)#P--1212|選択集 P.1212]]) に対して、 | |
:此義甚不可也。念者是心所 声者是色 心色既異何為一体乎。[http://www.jozensearch.jp/pc/zensho/detail/volume/8/page/792 (*)] | :此義甚不可也。念者是心所 声者是色 心色既異何為一体乎。[http://www.jozensearch.jp/pc/zensho/detail/volume/8/page/792 (*)] | ||
::この義はなはだ不可なり。念はこれ[[WDM:しんじょ|心所]]、声はこれ[[WDM:しきほう|色]]、心色すでに異なり、何ぞ一体と為すや。 | ::この義はなはだ不可なり。念はこれ[[WDM:しんじょ|心所]]、声はこれ[[WDM:しきほう|色]]、心色すでに異なり、何ぞ一体と為すや。 | ||
− | + | と、「乃至十念」は[[心法]](心のはたらき)であって称名という[[色法]](五感によって捉えられるはたらき)ではないからと「念声是一」と言えないという論難に対する御開山の応答でもあった。 | |
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+ | *この『十住毘婆沙論』の「われを念じ(信)名を称して(行)おのづから帰すれば、すなはち'''[[必定]]'''に入りて[[阿耨多羅三藐三菩提]]を得」の[[必定]]の文が、御開山の現生正定聚説の大きな根拠となった。 | ||
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通常は「いままさにつぶさに説くべし。無量寿仏・世自在王仏…この諸仏世尊、現に十方の清浄世界にまします。 みな名を称し憶念すべし。阿弥陀仏の本願はかくのごとし」と読む。
親鸞聖人は「諸仏はすべて阿弥陀仏の名号を称揚讃嘆する」という意に転じ、原文を読み改められた。 (行巻 P.153)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
- 百七仏章 原文:(十住毘婆沙論)
今当二具説一。無量寿仏・世自在王仏・師子意仏・法意仏・梵相仏・世相仏・世妙仏・慈悲仏・世王仏・人王仏・月徳仏・宝徳仏・相徳仏・大相仏・珠蓋仏・師子鬘仏・破無明仏・智華仏・多摩羅跋栴檀香仏・持大功徳仏・雨七宝仏・超勇仏・離瞋恨仏・大荘厳仏・無相仏・宝蔵仏・徳頂仏・多伽羅香仏・栴檀香仏・蓮華香仏・荘厳道路仏・竜蓋仏・雨華仏・散華仏・華光明仏・日音声仏・蔽日月仏・琉璃蔵仏・梵音仏・浄明仏・金蔵仏・須弥頂仏・山王仏・音声自在仏・浄眼仏・月明仏・如須弥山仏・日月仏・得衆仏・華生仏・梵音説仏・世主仏・師子行仏・妙法意師子吼仏・珠宝蓋珊瑚色仏・破痴愛闇仏・水月仏・衆華仏・開智慧仏・持雑宝仏・菩提仏・華超出仏・真琉璃明仏・蔽日明仏・持大功徳仏・得正慧仏・勇健仏・離諂曲仏・除悪根栽仏・大香仏・道映仏・水光仏・海雲慧遊仏・徳頂華仏・華荘厳仏・日音声仏・月勝仏・琉璃仏・梵声仏・光明仏・金蔵仏・山頂仏・山王仏・音王仏・竜勝仏・無染仏・浄面仏・月面仏・如須弥仏・栴檀香仏・威勢仏・燃灯仏・難勝仏・宝徳仏・喜音仏・光明仏・竜勝仏・離垢明仏・師子仏・王王仏・力勝仏・華歯仏・無畏明仏・香頂仏・普賢仏・普華仏・宝相仏。
- いままさにつぶさに説くべし。無量寿仏・世自在王仏 ・師子意仏・法意仏・梵相仏・世相仏・世妙仏・慈悲仏・世王仏・人王仏・月徳仏・宝徳仏・相徳仏・大相仏・珠蓋仏・師子鬘仏・破無明仏・智華仏・多摩羅跋栴檀香仏・持大功徳仏・雨七宝仏・超勇仏・離瞋恨仏・大荘厳仏・無相仏・宝蔵仏・徳頂仏・多伽羅香仏・栴檀香仏・蓮華香仏・荘厳道路仏・竜蓋仏・雨華仏・散華仏・華光明仏・日音声仏・蔽日月仏・琉璃蔵仏・梵音仏・浄明仏・金蔵仏・須弥頂仏・山王仏・音声自在仏・浄眼仏・月明仏・如須弥山仏・日月仏・得衆仏・華生仏・梵音説仏・世主仏・師子行仏・妙法意師子吼仏・珠宝蓋珊瑚色仏・破痴愛闇仏・水月仏・衆華仏・開智慧仏・持雑宝仏・菩提仏・華超出仏・真琉璃明仏・蔽日明仏・持大功徳仏・得正慧仏・勇健仏・離諂曲仏・除悪根栽仏・大香仏・道映仏・水光仏・海雲慧遊仏・徳頂華仏・華荘厳仏・日音声仏・月勝仏・琉璃仏・梵声仏・光明仏・金蔵仏・山頂仏・山王仏・音王仏・竜勝仏・無染仏・浄面仏・月面仏・如須弥仏・栴檀香仏・威勢仏・燃灯仏・難勝仏・宝徳仏・喜音仏・光明仏・竜勝仏・離垢明仏・師子仏・王王仏・力勝仏・華歯仏・無畏明仏・香頂仏・普賢仏・普華仏・宝相仏なり。
是諸仏世尊現在二十方清浄世界一。皆称レ名憶念。
- このもろもろの仏世尊現に十方の清浄世界にまします。みな名を称し憶念すべし。
阿弥陀仏本願如レ是。若人念レ我称レ名自帰 即入二必定一得二阿耨多羅三藐三菩提一。是故常応二憶念一。
- 阿弥陀仏の本願はかくのごとし、「もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得」と。このゆゑにつねに憶念すべし。 (十住毘婆沙論P.14)
- 御開山:(行巻)
今当三具説二無量寿仏一。世自在王仏。{乃至有其余仏}
- いままさにつぶさに無量寿仏を説くべし。世自在王仏[乃至その余の仏まします]
是諸仏世尊 現在十方清浄世界 皆称レ名 憶二念 阿弥陀仏本願一如レ是。
- この諸仏世尊、現在十方の清浄世界に、みな名を称し阿弥陀仏の本願を憶念することかくのごとし。
若人 念レ我称レ名 自帰 即入二必定一 得二阿耨多羅三藐三菩提一 是故常応二憶念一。
「隠/顕」- 今、詳しく無量寿仏について説こう。世自在王仏をはじめ、その他の仏がたもおられるが、これらの仏がたは、現にすべての清らかな世界において、みな阿弥陀仏の名号を称え、その本願を念じておられることは、以下の通りである。すなわち、阿弥陀仏の本願には、<もし人が、わたしの名を称え、他力の信心を得るなら、ただちに必定の位に入り、この上ないさとりを得ることができる>と誓われている。
御開山は原文の、世自在王仏から後の105仏を「乃至有其余仏(乃至その余の仏まします)」として省略されておられる。そして訓点を替えられて、原文では、衆生は十方清浄世界の諸仏の名を称し憶念すべしとある文を、「いままさにつぶさに無量寿仏を説くべし」と、無量寿仏を主体とされ、あらゆる諸仏は、みな〔なんまんだぶ〕と阿弥陀仏の名を称し阿弥陀仏の本願を憶念されている、と読み替えられた。この文に第十七願の「諸仏称揚」(諸仏の称名と憶念)と「選択称名」(衆生の憶念と称名)[1] の意をみておられたのである。→称
このように読めたのは、法然聖人が『三部経大意』などで第十七願を、
- 「その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり、第十七の願これなり。」(三部経大意p.783)
とされ、聖覚法印に執筆させたという「登山状」にも、
- ねがはくはわれ十方諸仏に、ことことくこの願を称揚せられたてまつらんと、かくのことく思惟して、第十七の願に「設我得仏 十方無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」「隠/顕」たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじとちかひ給ひて、つきに第十八願に「乃至十念、若不生者、不取正覚」「隠/顕」すなわち十念に至るまでせん。もし生まれずは、正覚を取らじ。、とちかひ給へり。 (拾遺語灯録中p.721)
と示された意を承けられているのであった。聖覚法印にも
- 「まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこころうべし。名号をもつてあまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆゑに、かつがつ名号をほめられんと誓ひたまへるなり。」(唯信鈔p.1341)
と、第十八願の「乃至十念」を第十七願にみておられる。御開山は、これらの意を承けて『阿弥陀経』の六法段──異訳の『称讃浄土経』では十方段──で、
- 「なんぢら衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃したまふ一切諸仏に護念せらるる経を信ずべし」(小経 P.125)
という諸仏の称讃の意を『無量寿経』の第十七願の、
- 「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」(大経 P.18)
に於いて見られたのであった。そもそも第十七願は衆生ではなく、十方世界の無量の諸仏に誓われた願であったのだが、第十八願の「乃至十念」は心念ではなく声の称名であることを、諸仏の教位に於いて確認されたのである。なんまんだぶと称えることは諸仏の行に等しいので「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」(行巻p.141) と大行(偉大な行)とされたのであった。これはまた明恵高弁が『摧邪輪莊嚴記』で、法然聖人の「念声是一釈」(選択集 P.1212) に対して、
と、「乃至十念」は心法(心のはたらき)であって称名という色法(五感によって捉えられるはたらき)ではないからと「念声是一」と言えないという論難に対する御開山の応答でもあった。