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+ | とあるように『大経』の「[[大経下#明諸行往生|三輩段]]」には[[菩提心]]と[[称名]]が説かれているのであり、称名を正行とし仏道の正因である菩提心を助行とすることは許されないと非難するのであった。これは正しい考察だが法然聖人の菩提心は浄土へ生まれようといふのが菩提心であった。<br /> | ||
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+ | と述べていた。真摯な求道者であった[[明恵]]は、自分自身は菩提心を発せていないが「菩提心は是れ仏道の正因と知る故に、念念に之を愛楽す」としていた。要するに明恵は菩提心はおこせていないのだが、法然はわたしの仏道の目標である菩提心を否定したと罵詈雑言したのである。→[[当為]]<br /> | ||
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:「菩提心は諸宗おのおのふかくこころえたりといへども、浄土宗のこころは浄土にむまれむと願ずるを菩提心といへり」([[三部経大意#P--797|三部経大意]]) | :「菩提心は諸宗おのおのふかくこころえたりといへども、浄土宗のこころは浄土にむまれむと願ずるを菩提心といへり」([[三部経大意#P--797|三部経大意]]) | ||
と、浄土門では、浄土へ生まれようと願うことを菩提心というのであるとされておられた。 | と、浄土門では、浄土へ生まれようと願うことを菩提心というのであるとされておられた。 | ||
御開山と明恵は同い年であったが、この明恵の論難に対して、法然聖人が廃捨されたのは自力の菩提心であるとして、 | 御開山と明恵は同い年であったが、この明恵の論難に対して、法然聖人が廃捨されたのは自力の菩提心であるとして、 | ||
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− | いわゆる『論註』の「[[願作仏心]]」「[[度衆生心]] | + | いわゆる『論註』の「[[願作仏心]]」「[[度衆生心]]」の菩提心である。真実の菩提心は浄土へ往生し仏のさとりを得ようと願う[[願作仏心]]であり、往生後に展開される[[度衆生心]]であるとされたのであろう。明恵は、自らが菩提心を起こせていないことを述懐しているように、自力の菩提心を発すことは、この世に於いては不可能なことなのであった。『歎異抄』にあるように、 |
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:慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々] ([[歎異抄#no4|歎異抄 P.833]]) | :慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々] ([[歎異抄#no4|歎異抄 P.833]]) | ||
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なお、源信僧都は『往生要集』の作願門で、天台大師智顗の撰とされる([[hwiki:淨土十疑論|『淨土十疑論』]])を引いて、 | なお、源信僧都は『往生要集』の作願門で、天台大師智顗の撰とされる([[hwiki:淨土十疑論|『淨土十疑論』]])を引いて、 | ||
− | :知りぬべし、念仏・修善を'''業因'''となし、往生極楽を'''華報'''となし、証大菩提を'''果報'''となし、利益衆生を'''本懐'''となす。 | + | {{Inyou| |
+ | :「浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと欲ふがゆゑなり。 すなはちみづから[[思忖]]すらく、〈われいま力なし。 もし悪世、煩悩の境のなかにあらば、境強きをもつてのゆゑに、みづから[[纏縛]]せられて[[三塗]]に[[淪溺]]し、ややもすれば数劫を経ん。 かくのごとく輪転して、無始よりこのかたいまだかつて休息せず。 いづれの時にか、よく衆生の苦を救ふことを得ん〉と。 これがために、浄土に生れて諸仏に親近し、[[無生忍]]を証して、まさによく悪世のなかにして、衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。 {以上}余の経論の文、つぶさに『十疑』のごとし。 | ||
+ | :知りぬべし、念仏・修善を'''業因'''となし、往生極楽を'''華報'''となし、証大菩提を'''果報'''となし、利益衆生を'''本懐'''となす。 たとへば、世間に木を植うれば華を開き、華によりて菓を結び、菓を得て[[餐受]]するがごとし。([[往生要集上巻 (七祖)#P--930|要集 P.930]]) | ||
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と、業因・華報・果報・本懐を示し、衆生を利益することを往生浄土の本懐であるとされていた。「[[願作仏心]]」「[[度衆生心]]」の他力の菩提心釈の淵源であった。 | と、業因・華報・果報・本懐を示し、衆生を利益することを往生浄土の本懐であるとされていた。「[[願作仏心]]」「[[度衆生心]]」の他力の菩提心釈の淵源であった。 | ||
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2024年7月25日 (木) 00:37時点における最新版
明恵高弁(1173-1232) は『選択本願念仏集』を読んで『摧邪輪』を作り「菩提心を撥去する過失」として法然聖人を以下のように罵詈雑言した。明恵は『無量寿経』の「三輩段」に菩提心と称名が説かれているが法然は菩提心を無視した(選択本願念仏集(P.1214)と「摧邪輪」を著し
- 汝はこの偏執に依るが故に委細に念佛の義を知らず。しかして自らの狂心にまかせてこの邪書を作り一宗を立てんとするに、有心の人誰かこれに依憑せんや。
- 次に称名を以て正行とし、所助とし、菩提心を以て助行とし、能助とすること、さらにその謂なし。もし好んで正助・能所を作らば、汝が言を翻して曰ふべし。謂く、菩提心は、是れ正行なり、所助なり、称名は、是れ助行なり、能助なり。謂く、往生の業は、菩提心を以て本とするが故に、一向に菩提心を熟せしめんがために、家を捨て欲を棄てて沙門と作り、専ら仏名を称するなり。謂く、菩提心は、是れ諸善の根本、万行の尊首なり。→三輩段
- この故に顕密諸経論に、皆菩提心を嘆じて仏道の種子とす。その証拠、雲霞のごとし、毛挙に遑(いとま)あらず。『大日経』に云く、「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす」等と云云。
とあるように『大経』の「三輩段」には菩提心と称名が説かれているのであり、称名を正行とし仏道の正因である菩提心を助行とすることは許されないと非難するのであった。これは正しい考察だが法然聖人の菩提心は浄土へ生まれようといふのが菩提心であった。
法然聖人は、
- 菩提心は諸宗おのおの心えたりといふ。浄土宗の心は、浄土にむまれんとねがふを菩提心といふ。(和語灯録#P--413)
とされておられた。これを御開山は「願作仏心」の菩提心とされたのである。
なお明恵の菩提心の根拠は『大日経』の「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす」の文であった。明恵は、仏道の正因は菩提心であり、これを廃捨し専修念仏だけを勧進する法然は畜生である、悪魔であるとまで罵倒するのであった。
しかし明恵は、それでは汝は菩提心を発せているのか? と自問自答し、
- 問曰 爾者汝有菩提心乎。
- 問うて曰く、爾れば汝に菩提心ありや。
- 答 設雖無之 如此知 是正見也。
- 答う。
設 い之 なしと雖 も、此の如く知る、是れ正見なり。
- 答う。
- 既有正見者 欣可欣 厭可厭。
- 既に正見ある者は、
欣 うべきを欣い、厭うべきを厭う。
- 既に正見ある者は、
- 知菩提心是佛道正因故 念念愛樂之。
- 菩提心は是れ仏道の正因と知る故に、念念に之を愛楽す。
- 知汝如所立是邪道故 念念厭惡之 終必可增長菩提心 成無上佛果。
- 汝が所立の如きは是れ邪道なりと知る故に、念念に之を厭悪し、終に必ず菩提心を増長し無上の仏果を成ずべし。
- 汝厭惡菩提心 佛種既朽敗。
- 汝の菩提心を厭悪する、仏種既に朽敗せり。
- 妙果依何得成。
- 妙果何に依りてか成ずるを得んや。
- 况又有相發心 行相麤顯。
況 んや又有相の発心、行相 麁顕なり。
- 隨分愛樂佛境者何必非菩提心乎。
- 随分に仏境を愛楽するは、何ぞ必ず菩提心にあらずや。
と述べていた。真摯な求道者であった明恵は、自分自身は菩提心を発せていないが「菩提心は是れ仏道の正因と知る故に、念念に之を愛楽す」としていた。要するに明恵は菩提心はおこせていないのだが、法然はわたしの仏道の目標である菩提心を否定したと罵詈雑言したのである。→当為
御開山が、
(16)
- 自力聖道の菩提心
- こころもことばもおよばれず
- 常没流転の凡愚は
- いかでか発起せしむべき (正像 P.603)
とされた意であった。
なお、法然聖人は
- 「菩提心は諸宗おのおのふかくこころえたりといへども、浄土宗のこころは浄土にむまれむと願ずるを菩提心といへり」(三部経大意)
と、浄土門では、浄土へ生まれようと願うことを菩提心というのであるとされておられた。
御開山と明恵は同い年であったが、この明恵の論難に対して、法然聖人が廃捨されたのは自力の菩提心であるとして、
と、横超の他力の菩提心を顕されたのが「信巻」で展開される菩提心釈であった。
いわゆる『論註』の「願作仏心」「度衆生心」の菩提心である。真実の菩提心は浄土へ往生し仏のさとりを得ようと願う願作仏心であり、往生後に展開される度衆生心であるとされたのであろう。明恵は、自らが菩提心を起こせていないことを述懐しているように、自力の菩提心を発すことは、この世に於いては不可能なことなのであった。『歎異抄』にあるように、
- 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々] (歎異抄 P.833)
の、「念仏して、いそぎ仏に成りて」の横超の菩提心(願作仏心)であった。
なお、源信僧都は『往生要集』の作願門で、天台大師智顗の撰とされる(『淨土十疑論』)を引いて、
- 「浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと欲ふがゆゑなり。 すなはちみづから思忖すらく、〈われいま力なし。 もし悪世、煩悩の境のなかにあらば、境強きをもつてのゆゑに、みづから纏縛せられて三塗に淪溺し、ややもすれば数劫を経ん。 かくのごとく輪転して、無始よりこのかたいまだかつて休息せず。 いづれの時にか、よく衆生の苦を救ふことを得ん〉と。 これがために、浄土に生れて諸仏に親近し、無生忍を証して、まさによく悪世のなかにして、衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。 {以上}余の経論の文、つぶさに『十疑』のごとし。
- 知りぬべし、念仏・修善を業因となし、往生極楽を華報となし、証大菩提を果報となし、利益衆生を本懐となす。 たとへば、世間に木を植うれば華を開き、華によりて菓を結び、菓を得て餐受するがごとし。(要集 P.930)
と、業因・華報・果報・本懐を示し、衆生を利益することを往生浄土の本懐であるとされていた。「願作仏心」「度衆生心」の他力の菩提心釈の淵源であった。
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