「不浄説法」の版間の差分
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+ | :仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品中生といふは、あるいは衆生ありて、五戒・八戒および具足戒を毀犯せん。かくのごときの愚人は、[[僧祇物]]を偸(ぬす)み、現前僧物を盗み、'''不浄説法'''して、慚愧あることなく、もろもろの悪業をもつてみづから荘厳す。([[観経#no29|観経 P.114]]) | ||
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+ | なお、御開山は『唯信鈔文意』で下品下生の文を、 | ||
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+ | : 「[[汝若不能念]]」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、[[不浄説法]]のもの、[[やまふ]]のくるしみにとぢられて、こころに弥陀を[[念じ]]たてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「[[応称無量寿仏]]」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。([[唯文#no10|唯文 P.716]]) | ||
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+ | と、引文し「不浄説法のもの」、と追記されておられることから、ご自身を下品下生の者とみておられたのであろう。<br /> | ||
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+ | 生涯悪を作り続けた[[唯知作悪の機]]が、こころに弥陀の功徳を思う事もできずに、ただ、なんまんだぶだけを口に称えただけで往生したといふことは、阿弥陀如来が選択し回向された「[[業因]]」である念仏のひとりばたらきであった。<br /> | ||
+ | 御開山はこの意を「これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり」と云われたのであった。 | ||
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2024年7月11日 (木) 03:25時点における最新版
ふじょう-せっぽう
自己の名誉や利益のために教法を説くこと。 (玄義分 P.317)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
ふじょう-せっぽう 不浄説法
自己の名誉や利益のために教法を説くこと。また、誤った教法を説くことをいう場合もある。『観経』下品中生(註 114) に出る語であるが、『唯信鈔文意』には
- 「五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて」(註 716)
と、下品下生の悪人とあわせて不浄説法のものが示されている。(浄土真宗辞典)
自己の名誉や利益のために教法を説くこと。また、誤った教法を説くことをいう場合もある。『観経』下品中生に僧侶を挙げ、
とある。
なお、御開山は『唯信鈔文意』で下品下生の文を、
と、引文し「不浄説法のもの」、と追記されておられることから、ご自身を下品下生の者とみておられたのであろう。
また、
- こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。
と、下品下生のなんまんだぶと口に称える称名を本願とされておられた。
生涯悪を作り続けた唯知作悪の機が、こころに弥陀の功徳を思う事もできずに、ただ、なんまんだぶだけを口に称えただけで往生したといふことは、阿弥陀如来が選択し回向された「業因」である念仏のひとりばたらきであった。
御開山はこの意を「これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり」と云われたのであった。