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「行」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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:これをうけた親鸞は、その称名念仏が[[本願力回向]]の行であることを示し、称えられている[[名号]]に衆生を往生成仏せしめる功徳がそなわっているとした。→[[大行]]、→[[三法]]、→[[四法]]
 
:これをうけた親鸞は、その称名念仏が[[本願力回向]]の行であることを示し、称えられている[[名号]]に衆生を往生成仏せしめる功徳がそなわっているとした。→[[大行]]、→[[三法]]、→[[四法]]
  
:Ⅱ 梵語サンスカーラ(saṃskāra)の漢訳。僧塞迦羅(そうそくから)・刪迦羅(さんから)などと音写する。形成力、形成されたものという意。三宝印の一である「諸行無常」の行の場合は一切の有為法、[[十二因縁]]の第二支とする場合は、無明を縁として生じた誤った行いと、その果報をいう。
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:Ⅱ 梵語サンスカーラ(saṃskāra)の漢訳。僧塞迦羅(そうそくから)・刪迦羅(さんから)などと音写する。形成力、形成されたものという意。[[三法印]]の一である「諸行無常」の行の場合は一切の有為法、[[十二因縁]]の第二支とする場合は、無明を縁として生じた誤った行いと、その果報をいう。
  
 
:Ⅲ 梵語ガマナ(gamana)の意訳。歩み行くこと。四威儀の一。→[[四威儀]] (浄土真宗辞典)
 
:Ⅲ 梵語ガマナ(gamana)の意訳。歩み行くこと。四威儀の一。→[[四威儀]] (浄土真宗辞典)
 
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*浄土真宗は、本願力回向の宗義であるから衆生にはさとりに至る能力を全く認めない。ゆえに行は阿弥陀仏から回向される[[念仏成仏]]の法であるとし[[大行]]という。
 
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→[[正定業]]
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 浄土真宗は、本願力回向の宗義であるから衆生にはさとりに至る能力を全く認めない。ゆえに行は阿弥陀仏から回向される[[念仏成仏]]の法であるとし[[大行]]という。
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仏教に於ける「行」とは、さとりに至るための修行、行法(ぎょうぼう)を意味し、厳しい修行によって自己の煩悩を浄化しさとりを得る実践をいふ。
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そして、真実のさとりを得るには真実の行('''[[無漏]]'''行)に拠らなければならないといふのが『論註』の真実功徳釈であった。
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と、いわゆる凡夫の修する行は、人や天に生まれる[[有漏]]善ではあっても、[[法性]]に順じた真実の証を得る行では無いというのであった。その真実の行とは『論註』「[[讃歎門]]」の「[[三不三信|二知三信]]」である本願力回向の'''[[大行]]'''というのが選択本願念仏であった。
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2024年2月14日 (水) 16:03時点における最新版

ぎょう

 他力の念仏のこと。(化巻 P.388)

【左訓】「おこなふとまうすなり」(唯文 P.700)


ぎょう

Ⅰ 梵語チャリャー(caryā)またはプラティパッティ(puratipatti)の漢訳。遮唎耶(しゃりや)・遮利夜などと音写する。行為・動作・実践の意。さとりに至るための修行、行法(ぎょうぼう)を指す。浄土真宗では、浄土往生の行は信と同じく阿弥陀仏より衆生にふり向けられ、与えられたものとして、大行といわれる。

Ⅱ 梵語サンスカーラ(saṃskāra)の漢訳。僧塞迦羅(そうそくから)・刪迦羅(さんから)などと音写する。形成力、形成されたものという意味。身口意(からだ・言葉・心)のはたらきという場合もある。

Ⅲ 四威儀の一。歩くこと。→四威儀(しいぎ)。

Ⅳ ここでは歩く姿の意。 (要集 P.1061)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

行(ぎょう)

Ⅰ 梵語チャリャー(caryā)またはプラティパッティ(puratipatti)の意訳。遮唎耶(しゃりや)・遮利夜などと音写する。行為・動作・実践の意で、さとり・涅槃に至るための行業を意味する。善導・法然は、称名念仏が阿弥陀仏の本願に順じる正定業であるから衆生を往生せしめる行であるとした。
これをうけた親鸞は、その称名念仏が本願力回向の行であることを示し、称えられている名号に衆生を往生成仏せしめる功徳がそなわっているとした。→大行、→三法、→四法
Ⅱ 梵語サンスカーラ(saṃskāra)の漢訳。僧塞迦羅(そうそくから)・刪迦羅(さんから)などと音写する。形成力、形成されたものという意。三法印の一である「諸行無常」の行の場合は一切の有為法、十二因縁の第二支とする場合は、無明を縁として生じた誤った行いと、その果報をいう。
Ⅲ 梵語ガマナ(gamana)の意訳。歩み行くこと。四威儀の一。→四威儀 (浄土真宗辞典)

 浄土真宗は、本願力回向の宗義であるから衆生にはさとりに至る能力を全く認めない。ゆえに行は阿弥陀仏から回向される念仏成仏の法であるとし大行という。 仏教に於ける「行」とは、さとりに至るための修行、行法(ぎょうぼう)を意味し、厳しい修行によって自己の煩悩を浄化しさとりを得る実践をいふ。 そして、真実のさとりを得るには真実の行(無漏行)に拠らなければならないといふのが『論註』の真実功徳釈であった。

「真実功徳相」とは、

二種の功徳あり。 一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。 いはゆる凡夫人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。

二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入る。この法顛倒せず、虚偽ならず。名づけて真実功徳となす。いかんが顛倒せざる。法性によりて二諦に順ずるがゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄に入らしむるがゆゑなり。(論註 P.56)

と、いわゆる凡夫の修する行は、人や天に生まれる有漏善ではあっても、法性に順じた真実の証を得る行では無いというのであった。その真実の行とは『論註』「讃歎門」の「二知三信」である本願力回向の大行というのが選択本願念仏であった。

大行
行信
正定業