「思不思議対」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | [[念仏]]は<kana>[[衆生]](しゅじょう)</kana> | + | [[念仏]]は<kana>[[衆生]](しゅじょう)</kana>の[[EXC:思議|思議]]がおよばない尊い法であるが、[[諸善]]は思いはかることのできる[[法]]である。([[行巻#P--199|行巻 P.199]]),([[愚禿上#P--509|愚禿上 P.509]]) |
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+ | 人間の思慮分別を超えた本願のはたらきが、人間を導いていく[[阿弥陀如来]]の不可思議な大悲智慧のはたらきを不思議といふ。人間の思議の領域と仏陀の不思議な[[智慧]]との対比を「[[思不思議対]]」といふ。<br /> | ||
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+ | [[ひそかにおもんみれば]]、[[難思の弘誓]]は[[難度海]]を度する大船、無碍の光明は[[無明]]の闇を破する[[恵日]]なり。([[総序#P--131|総序 P.131]]) | ||
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+ | と「[[難思の弘誓]]は[[難度海]]を度する大船」とは、阿弥陀如来の[[済度|衆生済度]]の難思の法であるとされておられるのもその意である。 | ||
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+ | :→[[不可称不可説不可思議]] | ||
+ | :→[[難思の弘誓]] | ||
+ | :→[[親鸞聖人の仏身論]] | ||
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+ | [[Category:追記]] |
2019年11月14日 (木) 16:54時点における最新版
し ふしぎ たい
念仏は
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
思議と不思議の対判。
人間の思慮分別を超えた本願のはたらきが、人間を導いていく阿弥陀如来の不可思議な大悲智慧のはたらきを不思議といふ。人間の思議の領域と仏陀の不思議な智慧との対比を「思不思議対」といふ。
『総序』には、