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親鸞聖人の仏身論

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御開山の仏身観の一部を窺うために(『一念多念文意講讃』梯實圓和上著)p.362より引用。この仏身観(真如論)に対して「二種法身説」から導かれる 垂名示形という概念は、御開山の名号論を理解する補助線となりうるであろう。リンクや脚注は林遊が附した。

トーク:一念多念証文


五 阿弥陀仏の顕現

 「この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御(み)なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり」(*) とは、阿弥陀仏は、因果を超え、自他を超え、思議を超えた一如法性法身)の必然の展開として顕現してきた方便法身であることを明かされた文章である。この部分の文章は『唯信鈔文意』の極楽涅槃界の釈と文言に多少の違いはあるが、趣旨は全く同じである。それゆえ両者を併せて理解しなければならない。『唯信鈔文意』の文章を挙げておこう。

法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひたるなり。この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゆゑに尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明の闇をはらひ、悪業にさへられず。このゆゑに無碍光と申すなり。無碍はさはりなしと申す。しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明智慧のかたちなりと知るべし。(『同』七〇九頁

この『一念多念文意』や『唯信鈔文意』に顕わされている親鸞聖人の阿弥陀仏観が、曇鸞大師の『論註』に出てくる二種法身説を承けておられることはいうまでもない。『論註』下の浄入願心章(『註釈版聖典七祖篇』一三九頁)には、法蔵菩薩の清浄願心によって成就された浄土は、相即無相・無相即相といわれるような広略相入の世界であるということが釈される。そこに、仏土が広略相入する有り様、身土不ニである仏身が法性法身方便法身という二種の法身が相即しているということをもって釈顕されていた。

 なんがゆゑぞ広略相入を示現するとなれば、諸仏菩薩に二種の法身まします。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同じかるべからず。このゆゑに広略相入して、統(す)ぶるに法の名をもつてす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなはち自利利他することあたはざればなり。

といわれたものがそれである。法性法身とは、さとりそのものである一如法性を身としている仏身であって、一切の分別を離れた無分別智(実智)の領域であるから、理智不ニの身といわれている。方便法身とは、万物が本来一如平等のありようをしていることを、虚妄分別に閉ざされている衆生に知らせ導くために、形を示し、言葉をもって衆生の前に近づき顕現している悲智不ニの仏身を云う。曇鸞大師は『論註』に方便を釈して「正直を方といふ、外己を便といふ」(*) といわれている。正直とは、うそ・いつわりのないことで、一如にかなった正しい智慧のはたらきを意味している。「外己」とは、己を捨てて一切衆生を救済する大悲のはたらきをいう。いわゆる権仮方便ではなくて、善巧方便といわれる意味である。真実を知るものは、人々の迷いを知るがゆえに、迷える人々を救おうという大悲を起こし、大悲の智慧が時宜にかなった具体的な救済活動を行うことを方便というのである。すなわち一切の衆生を救済しようという本願を起こし、永劫の修行によって願を成就し、光明無量、寿命無量の徳を完成し、三種荘厳二十九種の浄土をもうけて衆生を救いたまう仏身のことを方便法身というのである。

 『論註』では、止観の対象となる浄土について、三厳二十九種という事相を広門といい、一如法性を略門といわれているから、法性法身とは略門平等の理法を指し、方便法身とは広門差別の事相を意味していた。そしてこの二種法身のありようを由生・由出といわれている。[1] すなわち法性法身によって方便法身は生起し、方便法身によって法性法身の徳が顕わし出されるからである。こうして二種法身は「不一・不異」の関係にあるといわれる。 したがって略門と広門もまた「不一・不異」であって、相即相入のあり方を示している。それゆえ、浄土の三厳二十九種智慧をもって観察すれば、自ずから相即無相・無相即相というあり方をしている諸法の実相をさとり、智慧と慈悲、自利と利他を成就することが出来るというのである。

ところで親鸞聖人の二種法身説は、曇鸞大師のように広略相入・空有相即をあらわすような横的な二身論ではなく、法性法身より方便法身を出し、その方便法身によって凡夫は救済されて法性の領域にいたらしめられるといった、極めて躍動的な、竪的な仏身論であった[2]。すなわち自他、善悪、愛憎、生死、因果といった二元的な分別の領域を超えた、無分別一如の法性法身の自ずからなるはたらきとして、無相中に相をたれ、非因非果のうちに因果を示現し、言葉を超えた世界を言葉であらわして衆生の虚妄分別を破り、迷妄の衆生を本来の真実に帰らせるはたらきが方便法身であるというのである。

 「この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり」といわれるのがそれである。非因非果の一如の領域が、衆生救済のために因果相を示現されるが、その因のすがたを法蔵菩薩と名づけるのである。菩薩という因相を示現することによって、一如の理にかなって、万人を善悪・賢愚の隔てなく平等に救済しようという「無碍のちかひをおこし」、「衆生もし生まれずは正覚をとらじ」という生仏一如の本願をたて、その誓願を実現して、万人を障りなく救う絶対無碍の救済者となられたという阿弥陀仏のいわれを一切衆生に知らしめていくのである。このように因位の誓願に酬報した仏であるという意味では、阿弥陀仏は報身仏とよばれる。しかし法性法身である一如の顕現態であるという意味では方便法身と名づけられるのである。したがって報身仏というのは、従因至果の名であって、本願力の救済を知らしめることを主としている。それに対して方便法身とは、一如の顕現態であることを顕わす名であって、その法門の永続性・絶対性を顕わすことを主としている。

 「これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり」といわれるのは、方便法身であり報身仏であるような阿弥陀仏の徳は、尽十方無碍光如来・不可思議光仏という名号となって顕れていることを述べられたものである。いいかえれば方便法身が、万人に向かって告げている願力自然の救いの名乗りが南無阿弥陀仏であり、その救いのはたらきの無碍性を示している名号が帰命尽十方無碍光如来であり、その悟りの超越性を顕わす名号が南無不可思議光仏であるといわれるのである。このように非因非果の法性法身が、本願の因果の相を示現することは、虚妄分別によって、輪廻転生という虚妄の生死を続けている衆生を呼び覚まして、その虚妄の因果から解放し、解脱させるためだったのである。

 そのことを「方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり」といわれたのである。無相中に相を示現し、無名中に名号を垂れて、衆生を呼び覚ましていくことを方便というといわれているのである。これを垂名示形(すいみょう-じぎょう)[3] といいならわしている。まさに「正直を方といふ、外己を便といふ」といわれた方便の釈そのままの姿であった。その相が南無阿弥陀仏であり、帰命尽十方無碍光如来であり、南無不可思議光仏だったのである。それはまさに一如が名号となって私どもの前に「如来」する相であった

 

  1. 『論註』の「法性法身 方便法身。方便法身 法性法身。此二法身 異而不可分(法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず)」の文から「由生・由出」という。
  2. いわゆる大乗の「空」と「有」が相即する妙有といふ論理ではなく、阿弥陀如来の衆生済度の本願力によって生起する躍動的な二種法身をいふのであろう。
  3. 垂名示形(名を垂れて形を示す)。名を垂れるとは、一切衆生を済度しようとする法蔵菩薩の願心が、南無阿弥陀仏という名のりとなって十方衆生に称えられ聞かせしめんとすること。形を示すとは、一如より来生した法蔵菩薩が誓願成就して阿弥陀仏(報身如来)となる因果相(仏願の生起本末)をあらわすことを形を示すといふ。