「智栄讃善導別徳云…」の版間の差分
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:「<kana>善導阿弥陀仏化身(ぜんどう-あみだぶつけしん)</kana> <kana>称仏六字(しょうぶつろくじ)</kana> <kana>即嘆仏即懺悔(そくたんぶつ-そくざんげ)</kana> <kana>即発願回向(そくほつがんえこう)</kana> <kana>一切善根荘厳浄土(いっさいぜんごん-しょうごんじょうど)</kana>」 | :「<kana>善導阿弥陀仏化身(ぜんどう-あみだぶつけしん)</kana> <kana>称仏六字(しょうぶつろくじ)</kana> <kana>即嘆仏即懺悔(そくたんぶつ-そくざんげ)</kana> <kana>即発願回向(そくほつがんえこう)</kana> <kana>一切善根荘厳浄土(いっさいぜんごん-しょうごんじょうど)</kana>」 | ||
− | :: | + | ::善導は阿弥陀仏の化身なり。仏の六字を称せば即ち仏を嘆ずるなり、即ち[[懺悔]]するなり、即ち発願回向なり、一切善根浄土を[[荘厳]]するなり。([[尊号真像銘文#no8|尊号 P.655]]) |
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:本願を信じて念仏すれば仏を讃嘆していることになる。念仏は讃嘆の徳をもつ行業として私たちに与えられているので、「…になる」という。以下、懺悔等について「…になる」というのも同様の意。[[仏をほめたてまつるになる|(*)]] | :本願を信じて念仏すれば仏を讃嘆していることになる。念仏は讃嘆の徳をもつ行業として私たちに与えられているので、「…になる」という。以下、懺悔等について「…になる」というのも同様の意。[[仏をほめたてまつるになる|(*)]] | ||
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天親菩薩の『浄土論』では五念門の讃嘆行を、 | 天親菩薩の『浄土論』では五念門の讃嘆行を、 | ||
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:いかんが[[讃歎]]する。口業をもつて[[讃歎]]したてまつる。かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの[[名義]]のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。 ([[浄土論_(七祖)#P--33|浄土論 P.33]]) | :いかんが[[讃歎]]する。口業をもつて[[讃歎]]したてまつる。かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの[[名義]]のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。 ([[浄土論_(七祖)#P--33|浄土論 P.33]]) | ||
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深川倫雄和上は、<kana>念念称名即嘆仏(ねんねんしょうみょう-そくたんぶつ)</kana>、<kana>念念称名即懴悔(ねんねんしょうみょう-そくざんげ)</kana>と、[[称名報恩]]説と異なる論理で、なんまんだぶを称えることをお勧めであった。➡[[称名]] | 深川倫雄和上は、<kana>念念称名即嘆仏(ねんねんしょうみょう-そくたんぶつ)</kana>、<kana>念念称名即懴悔(ねんねんしょうみょう-そくざんげ)</kana>と、[[称名報恩]]説と異なる論理で、なんまんだぶを称えることをお勧めであった。➡[[称名]] | ||
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2023年7月10日 (月) 14:53時点における最新版
智栄讃善導別徳云(智栄善導の別徳を
- 「
善導阿弥陀仏化身 称仏六字 即嘆仏即懺悔 即発願回向 一切善根荘厳浄土 」
御開山はこの文を釈して、
- 「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。
- 「即発願回向」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち安楽浄土に往生せんとおもふになるなり、また一切衆生にこの功徳をあたふるになるとなり。(尊号 P.655)
とされておられた。注釈版の脚注では、この「…になる」を、
- 本願を信じて念仏すれば仏を讃嘆していることになる。念仏は讃嘆の徳をもつ行業として私たちに与えられているので、「…になる」という。以下、懺悔等について「…になる」というのも同様の意。(*)
とあるのだが、如実讃嘆ということから「なるとなり」とされた意を梯實圓和上の指南から少しく窺ふ。
天親菩薩の『浄土論』では五念門の讃嘆行を、
とある。御開山はこの「如実修行相応(如実に修行して相応せん)」の意を洞察されて、本願に選択された名号を称えることは、「不可称不可説不可思議」の阿弥陀如来の徳を過不足なく讃嘆したことになるのであり、無始已来の仏智を疑惑した罪業を懺悔したことになると領解されたのであろう。如実讃嘆とは阿弥陀仏の徳を知るゆえに如実といわれるのだが、真実に仏徳を知ることが出来なくても、凡夫の口に称えられる〔なんまんだぶ〕は如実讃嘆(実のごとく讃嘆)したことになり如実懺悔(実のごとく懴悔)したことになるとされたのであった。
深川倫雄和上は、