操作

「疑」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
(同じ利用者による、間の1版が非表示)
12行目: 12行目:
 
[[画像:Utagai.jpg]]
 
[[画像:Utagai.jpg]]
 
}}
 
}}
法然聖人は『選択集』で「信疑決判」し、
+
{{Tinc|トーク:疑情}}
:当知生死之家 以疑為所止 涅槃之城 以信為能入
+
::まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。 ([[選択本願念仏集 (七祖)#P--1248|選択集 P.1248]])
+
と、疑えば生死に迷うのであり、信ずればよく涅槃へ入るといわれた。<br />
+
そもそも信の反対語は不信なのだが、法然聖人は疑といわれた。御開山はこれを承けられて「正信念仏偈」で、
+
:還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入
+
::生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。([[行巻#P--207|行巻 P.207]])
+
とされておられた。
+
  
  
[[Category:追記]]
+
[https://okjiten.jp/kanji997.html 疑の成り立ち]

2024年10月15日 (火) 07:07時点における最新版

ぎ 疑

(梵)ヴィチキトサー vicikitsá の訳。心所(心のはたらき)の一。仏教の真理に対して心がためらい決定しないこと。信に相対する。 倶舎宗では不定地法の一。唯識宗では六根本煩悩の一。なお広義では、一般に煩悩でない疑いをも含める。疑いの気持ちが入り乱れて決定しないことを網にたとえて疑網(ぎもう)という。自らを疑い、師を疑い、法を疑うのを三疑という。(仏教語辞典)

疑蓋

なりたち出典『角川新字源 改訂新版』(KADOKAWA)

象形。つえをついた人が、どちらの道を行くべきかと、まよっている形にかたどる。心を決めかねることから、「うたがう」意を表す。

Utagai.jpg

◆ 参照読み込み (transclusion) トーク:疑情

仏教では、とは猶予不定(ゆうよふじょう)をいう。迷いを超える仏教の理(ことわり)に対して、猶予して決定しない精神の作用のことである。自らの描いた想念によってためらい、仏教の真理に対して決定的に思い切ることができないことをという。これは煩悩の異名である五蓋の中の疑蓋に相当する。五蓋は自らの心を曇らせ覚りへの道を妨げる煩悩の意であるが、浄土真宗の場合は自からの行為による罪福を信じて、阿弥陀仏の本願 (第十八願)を信受しないことを疑蓋という。
本来、信の反対語は不信なのだが、法然聖人は『選択集』三心章(p.1248)で、『観経』の深心を釈され、

次に「深心」とは、いはく深信の心なり。まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。 (選択集 P.1248)

と、深心(深い心)は深信の心(深く信じる心)であるとされ、生死輪廻の家にとどまるのは本願を疑うからであり、覚りの城(みやこ)に入るのは本願を信ずるからであると、信と疑によっての涅槃の得失を対判された。親鸞聖人が「正信念仏偈」で、

還来生死輪転家 決以疑情為所止
生死輪転の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情をもつて所止とす。
速入寂静無為楽 必以信心為能入
すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。

とされた所以である。→生死の家には…
親鸞聖人は三心一心の字訓釈で、第十八願の至心・信楽・欲生を、それぞれ疑蓋無雑(ぎがいむぞう)とされたのはこれに基づく。あらゆるものを平等に救済するという阿弥陀如来の本願力を疑い、自らが拵えた疑いの蓋を雑えで遮蔽していることを疑というのである。救いの法は光明・名号摂化十方と現に届いているのであり、これを受け入れないことを浄土真宗では根本無明の痴無明と区別して疑無明とよぶ。「行巻」破闇満願釈で、「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破」す、とされる由縁である。→称名破満

なお、不審と疑心は違う概念であり、これを混同すると仏教の信の意味を誤解することになる。不審とは審(つまび)らかではないという意で、より深く本願の意味を知り、かつ味わいたいという問いの意であって、本願に対する疑情とは峻別すべきものである。親鸞聖人が唯円房の問いに「親鸞もこの不審ありつるに」(歎異抄9条)と、仰せられたごとくである。
これを混乱すると、カリスマ(大衆をひきつけ心酔させる力)的な善知識という人師の言葉を自らが咀嚼し考察することなく盲目的に受け入れる人惑を受けることになる。人の言葉によって迷い、他人の言葉によって右往左往するのである。あまつさえ組織や善知識に対する不審を問うことすらも、疑情とされてしまうのである。

称名破満の釈義
疑蓋


疑の成り立ち