「二河の譬喩」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
(同じ利用者による、間の2版が非表示) | |||
5行目: | 5行目: | ||
「また、西の岸の上に、人ありて喚(よ)ばうていはく、〈'''汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん'''〉」<ref>『観経疏」では、「我能汝護(われよくなんぢを護らん)」なっているが、ここでは汝の語が略されている。「汝一心 正念直来(なんぢ一心正念にしてただちに来れ)」の「汝」を強調する為に後の汝の語を略されたのであろう。しかし先人は、この略された汝の所にはお前の名前をいれるのだよ、といわれていた。「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよく〔林遊〕を護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と読むのであろう。ありがたいこっちゃ</ref> といふは、「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。 | 「また、西の岸の上に、人ありて喚(よ)ばうていはく、〈'''汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん'''〉」<ref>『観経疏」では、「我能汝護(われよくなんぢを護らん)」なっているが、ここでは汝の語が略されている。「汝一心 正念直来(なんぢ一心正念にしてただちに来れ)」の「汝」を強調する為に後の汝の語を略されたのであろう。しかし先人は、この略された汝の所にはお前の名前をいれるのだよ、といわれていた。「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよく〔林遊〕を護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と読むのであろう。ありがたいこっちゃ</ref> といふは、「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。 | ||
− | <span style="font-size: 150%;font-weight: bold;">「汝」</span>の言は行者なり<ref>「汝の言は行者なり」。ここで「汝」とは下にある、「我の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり」の「我」に対応する。主体は「我」である阿弥陀仏であり、その阿弥陀仏から「汝」と呼ばれている「我」の発見である。我→汝。→「[[他力]]」</ref>、これすなはち[[必定の菩薩]]と名づく。龍樹大士『十住毘婆沙論』(易行品 | + | <span style="font-size: 150%;font-weight: bold;">「汝」</span>の言は行者なり<ref>「汝の言は行者なり」。ここで「汝」とは下にある、「我の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり」の「我」に対応する。主体は「我」である阿弥陀仏であり、その阿弥陀仏から「汝」と呼ばれている「我」の発見である。我→汝。→「[[他力]]」</ref>、これすなはち[[必定の菩薩]]と名づく。龍樹大士『十住毘婆沙論』(易行品 一六)にいはく、「[[即時入必定]]」となり。曇鸞菩薩の『論』(論註・上意)には、「[[入正定聚之数]]」といへり。善導和尚は、「希有人なり、最勝人なり、[[妙好人]]なり、好人なり、上上人なり、真仏弟子なり」といへり。→[[五種の嘉誉]] |
<span style="font-size: 150%;font-weight: bold;">「一心」</span>の言は、真実の信心なり。 | <span style="font-size: 150%;font-weight: bold;">「一心」</span>の言は、真実の信心なり。 | ||
11行目: | 11行目: | ||
<span style="font-size: 150%;font-weight: bold;">「正念」</span>の言は、選択摂取の本願なり、また[[第一希有の行]]なり、金剛不壊の心なり。 | <span style="font-size: 150%;font-weight: bold;">「正念」</span>の言は、選択摂取の本願なり、また[[第一希有の行]]なり、金剛不壊の心なり。 | ||
− | <span style="font-size: 150%;font-weight: bold;">「直」</span> | + | <span style="font-size: 150%;font-weight: bold;">「直」</span>の言は、[[回]]に対し[[迂]]に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。 |
<span style="font-size: 150%;font-weight: bold;">「来」</span>の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。 | <span style="font-size: 150%;font-weight: bold;">「来」</span>の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。 | ||
− | <span style="font-size: 150%;font-weight: bold;">「我」</span> | + | <span style="font-size: 150%;font-weight: bold;">「我」</span>の言は、[[尽十方無礙光如来]]なり、不可思議光仏なり。 |
<span style="font-size: 150%;font-weight: bold;">「能」</span>の言は、不堪に対するなり、疑心の人なり。 | <span style="font-size: 150%;font-weight: bold;">「能」</span>の言は、不堪に対するなり、疑心の人なり。 | ||
− | <span style="font-size: 150%;font-weight: bold;">「護」</span> | + | <span style="font-size: 150%;font-weight: bold;">「護」</span>の言は、阿弥陀仏果成の正意を顕すなり、また摂取不捨を形(あらわ)すの貌(かおばせ)なり、すなはちこれ[[現生護念]]なり。([[愚禿鈔 (下)#no82|愚禿下 p.538]]) |
2023年5月20日 (土) 16:17時点における最新版
- 汝としての自己の発見。
汝一心 正念直来 我能護
「また、西の岸の上に、人ありて喚(よ)ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」[1] といふは、「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。
「汝」の言は行者なり[2]、これすなはち必定の菩薩と名づく。龍樹大士『十住毘婆沙論』(易行品 一六)にいはく、「即時入必定」となり。曇鸞菩薩の『論』(論註・上意)には、「入正定聚之数」といへり。善導和尚は、「希有人なり、最勝人なり、妙好人なり、好人なり、上上人なり、真仏弟子なり」といへり。→五種の嘉誉
「一心」の言は、真実の信心なり。
「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。
「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。
「能」の言は、不堪に対するなり、疑心の人なり。
「護」の言は、阿弥陀仏果成の正意を顕すなり、また摂取不捨を形(あらわ)すの貌(かおばせ)なり、すなはちこれ現生護念なり。(愚禿下 p.538)- ↑ 『観経疏」では、「我能汝護(われよくなんぢを護らん)」なっているが、ここでは汝の語が略されている。「汝一心 正念直来(なんぢ一心正念にしてただちに来れ)」の「汝」を強調する為に後の汝の語を略されたのであろう。しかし先人は、この略された汝の所にはお前の名前をいれるのだよ、といわれていた。「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよく〔林遊〕を護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と読むのであろう。ありがたいこっちゃ
- ↑ 「汝の言は行者なり」。ここで「汝」とは下にある、「我の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり」の「我」に対応する。主体は「我」である阿弥陀仏であり、その阿弥陀仏から「汝」と呼ばれている「我」の発見である。我→汝。→「他力」