「不可称不可説不可思議」の版間の差分
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たたえつくすことも、説きつくすことも、心で思いはかることもできないこと。名号の功徳のはかりしれないことをいう。 ([[高僧和讃#P--599|高僧 P.599]], [[正像末和讃#P--605|正像 P.605]], [[三経往生文類#P--635|三経 P.635]], [[一多#P--681|一多 P.681]], [[唯文#P--700|唯文 P.700]], [[歎異抄#P--837|歎異抄 P.837]], [[御文五#P--1192|御文章 P.1192]]) | たたえつくすことも、説きつくすことも、心で思いはかることもできないこと。名号の功徳のはかりしれないことをいう。 ([[高僧和讃#P--599|高僧 P.599]], [[正像末和讃#P--605|正像 P.605]], [[三経往生文類#P--635|三経 P.635]], [[一多#P--681|一多 P.681]], [[唯文#P--700|唯文 P.700]], [[歎異抄#P--837|歎異抄 P.837]], [[御文五#P--1192|御文章 P.1192]]) | ||
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− | : | + | :如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。[[補処]]の[[弥勒菩薩]]をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。([[消息下#P--779|消息 P.779]]) |
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とあるように、[[真如]]の[[顕現]]であるような[[阿弥陀仏]]の[[誓願]]を疑惑すること、そのはたらき([[力用]])である〔なんまんだぶ〕を疑うことを御開山は以下の『誡疑讃』([[正像末和讃#誡疑讃|正像 P.610]]) | とあるように、[[真如]]の[[顕現]]であるような[[阿弥陀仏]]の[[誓願]]を疑惑すること、そのはたらき([[力用]])である〔なんまんだぶ〕を疑うことを御開山は以下の『誡疑讃』([[正像末和讃#誡疑讃|正像 P.610]]) | ||
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2024年7月6日 (土) 11:07時点における最新版
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たたえつくすことも、説きつくすことも、心で思いはかることもできないこと。名号の功徳のはかりしれないことをいう。 (高僧 P.599, 正像 P.605, 三経 P.635, 一多 P.681, 唯文 P.700, 歎異抄 P.837, 御文章 P.1192)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
- 称といふ漢字には、となえるの他に、たたえる・あげる・かなう・はかる といふ意味があり、ここでの不可称の称とはたたえるといふ意。同じく称名の称には讃嘆(名をたたえる)といふ意味がある。→讃嘆 →第十七願
唐訳『華厳経』10.237にある、
- 諸仏如来 演説
- 阿僧祇 無量 無辺 無等 不可数 不可称 不可思 不可量 不可説 不可説不可説。
の、人間の思慮分別を超えた領域を示す語に拠られたのであるといわれる。『御消息』には、
とあるように、真如の顕現であるような阿弥陀仏の誓願を疑惑すること、そのはたらき(力用)である〔なんまんだぶ〕を疑うことを御開山は以下の『誡疑讃』(正像 P.610)
として示しておられた。
(60)
{──中略──}
(82)
- 仏智うたがふつみふかし
- この心おもひしるならば
- くゆるこころをむねとして
- 仏智の不思議をたのむべし
以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせるなり。