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「名号」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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みょうごう
 
みょうごう
  
 Ⅰ 一般にはすべての[[仏]]・[[菩薩]]の名前を名号という。浄土教では、とくに[[阿弥陀仏]]の名を指していう。[[浄土真宗]]では「<ruby><rb>南無</rb><rp>(</rp><rt>なも</rt><rp>)</rp></ruby>阿弥陀仏」を六字の名号といい、その徳義をあらわした「南無不可思議光仏」を八字の名号、「南無不可思議光如来」を九字の名号、「<ruby><rb>帰命尽十方無碍光如来</rb><rp>(</rp><rt>きみょうじんじっぽうむげこうにょらい</rt><rp>)</rp></ruby>」を十字の名号という。
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 一般にはすべての[[仏]]・[[菩薩]]の名前を名号という。浄土教では、とくに[[阿弥陀仏]]の名を指していう。[[浄土真宗]]では「南無阿弥陀仏」を六字の名号といい、その徳義をあらわした「南無不可思議光仏」を八字の名号、「南無不可思議光如来」を九字の名号、「帰命尽十方無碍光如来」を十字の名号という。→[[名号画像]]<br>
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[[曇鸞]]大師は、帰命尽十方無碍光如来の名号には、[[衆生]]の[[無明]]を破し、往生成仏の志願を満たす徳があるといい、[[善導]]大師は、[[南無阿弥陀仏]]には願と行が具足しているからよく[[往生]]の行となるといい、[[法然]]上人は、名号には阿弥陀仏のもつ無量の徳が具わっているといわれる。そして[[親鸞聖人]]は、仏の衆生救済の願いが名号となってあらわれているのであり、摂取して捨てないという[[本願招喚の勅命]]であるといわれた。→[[補註10]]。
  
[[曇鸞]]大師は、帰命尽十方無碍光如来の名号には、[[衆生]]の<ruby><rb>[[無明]]</rb><rp>(</rp><rt>むみょう</rt><rp>)</rp></ruby>を破し、往生成仏の志願を満たす徳があるといい、[[善導]]大師は、[[南無阿弥陀仏]]には願と行が具足しているからよく[[往生]]の行となるといい、[[法然]]上人は、名号には阿弥陀仏のもつ無量の徳が具わっているといわれる。そして[[親鸞聖人]]は、仏の衆生救済の願いが名号となってあらわれているのであり、摂取して捨てないという[[本願招喚の勅命]]であるといわれた。→[[補註10]]。
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名号
  
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 ここでは称名の意。([[信巻本#P--245|信巻 P.245]])
  
 Ⅱ ここでは信心を得た後の称名のこと。([[御文二#P--1126|御文章 P.1126]])
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 ここでは信心を得た後の称名のこと。([[御文二#P--1126|御文章 P.1126]])
  
 
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2017年3月30日 (木) 15:29時点における版

みょうごう

 一般にはすべての菩薩の名前を名号という。浄土教では、とくに阿弥陀仏の名を指していう。浄土真宗では「南無阿弥陀仏」を六字の名号といい、その徳義をあらわした「南無不可思議光仏」を八字の名号、「南無不可思議光如来」を九字の名号、「帰命尽十方無碍光如来」を十字の名号という。→名号画像
曇鸞大師は、帰命尽十方無碍光如来の名号には、衆生無明を破し、往生成仏の志願を満たす徳があるといい、善導大師は、南無阿弥陀仏には願と行が具足しているからよく往生の行となるといい、法然上人は、名号には阿弥陀仏のもつ無量の徳が具わっているといわれる。そして親鸞聖人は、仏の衆生救済の願いが名号となってあらわれているのであり、摂取して捨てないという本願招喚の勅命であるといわれた。→補註10

名号

 ここでは称名の意。(信巻 P.245)

 ここでは信心を得た後の称名のこと。(御文章 P.1126)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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