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「念」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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:まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。'''真実の信心はかならず名号を具す'''。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。([[信巻本#no50|信巻 P.245]])
 
:まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。'''真実の信心はかならず名号を具す'''。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。([[信巻本#no50|信巻 P.245]])
 
とされた意と相応するのであった。ここでの名号とは可聞可称の口業の〔なんまんだぶ〕である。その意味において真宗の布教使の営業用である〔なんまんだぶ〕は「名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」なのである。声高に信心や、その信心における社会を叫ぶ真宗坊主の真贋を見分けるには、語業である〔なんまんだぶ〕の大行を修しているか否かである。自己のアイデンティティー(組織である特定集団への帰属意識)を忘れた坊主のなれの果てであるが、可哀想ではある。<br />
 
とされた意と相応するのであった。ここでの名号とは可聞可称の口業の〔なんまんだぶ〕である。その意味において真宗の布教使の営業用である〔なんまんだぶ〕は「名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」なのである。声高に信心や、その信心における社会を叫ぶ真宗坊主の真贋を見分けるには、語業である〔なんまんだぶ〕の大行を修しているか否かである。自己のアイデンティティー(組織である特定集団への帰属意識)を忘れた坊主のなれの果てであるが、可哀想ではある。<br />
 
  
 
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③ また極めて短い時間を念と称することがあり、一刹那或いは六〇刹那或いは九〇刹那などを一念とする。 →[[一念]](仏教学辞典)
 
③ また極めて短い時間を念と称することがあり、一刹那或いは六〇刹那或いは九〇刹那などを一念とする。 →[[一念]](仏教学辞典)
 
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*→[[信の一念]]
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*→[[行の一念]]
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*→[[行信一念について]]
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*→[[安心論題/信一念義]]
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*→[[トーク:一念多念証文#.E4.B8.83.E3.80.80.E4.BF.A1.E3.81.AE.E4.B8.80.E5.BF.B5|梯和上の『一念多念文意講讃』の信の一念から]]
  
 
外部リンク
 
外部リンク
 
*wikipedia [[JWP:念_(仏教)]]
 
*wikipedia [[JWP:念_(仏教)]]

2017年9月22日 (金) 23:18時点における版

ねん

 心に保持して忘れないこと。 (安楽集 P.260)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

念(ねん)

心と、音符 今(とどめておく意→含(カン)から成る、心にかたくとめておく意をあらわす)から成る形声文字で、おぼえる、おもふの意。心の中にじっと思っていて、思いが離れないということ。
善導大師は第十八願の「乃至十念」の念を十声の「称念」であるとされた。

若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚。
もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ。(往生礼讃 P.711)

この文を古来から「第十八願取意の文」と呼称している。この善導大師の示唆によって、法然聖人や御開山は「乃至十念」は十声の称名念仏(なんまんだぶ)であるとされた。また法然聖人は『選択本願念仏集』P.1212で『観経』の下品下生の

「声をして絶えざらしめて、十念を具足して、〈南無阿弥陀仏〉と称せば、仏の名を称するがゆゑに、念々のうちにおいて八十億劫の生死の罪を除く(令声不絶 具足十念 称南無阿弥陀仏。称仏名故 於念念中 除八十億劫生死之罪)」(観経 P.115)

の文と会通して「念声是一」(念と声はこれ一なり)とされた。御開山は後序においてこの『往生礼讃』の文を法然聖人が自己の嗣法(法統を受け継ぐこと)の証として真影の銘に真筆をもって書いて下さったことを「決定往生の徴(しるし)なり」感佩しておられる。(化巻 P.472)
後年、蓮如さんは、念声是一の意味がわからないという門弟に、

おもひ内にあればいろ外にあらはるるとあり。されば信をえたる体はすなはち南無阿弥陀仏なりとこころうれば、口も心もひとつなり。 (一代記 P.1232)

と「法相の表裡」(行は口称の語業で、外に表に顕れているから表とし、心念は内に潜むものだから裡という)で示されたのは卓見である。
御開山が「信巻」で、三信を決釈した信楽(信心)の結論として、

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。(信巻 P.245)

とされた意と相応するのであった。ここでの名号とは可聞可称の口業の〔なんまんだぶ〕である。その意味において真宗の布教使の営業用である〔なんまんだぶ〕は「名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」なのである。声高に信心や、その信心における社会を叫ぶ真宗坊主の真贋を見分けるには、語業である〔なんまんだぶ〕の大行を修しているか否かである。自己のアイデンティティー(組織である特定集団への帰属意識)を忘れた坊主のなれの果てであるが、可哀想ではある。

① (梵)のスムリティ(smṛti)の訳で、憶、憶念とも訳す。心所(心のはたらき)の名。かつて経験したことを明らかに記憶して忘れないこと(明記不忘の義)。倶舎宗では十大地法の一とし、唯識宗では五別境の一とする。勝れた力をもっているから五根、五力の一の数えて、念根、念力ともいう。念の反対を失念という。
また単に「思い」「想い」の意味に「念」の語を用いる。
{中略}
浄土教でいう十念については異説があり、或いは仏のすがたを念じ、または称名念仏するのに多想をまじえないでおもいをこらして一〇の憶念を続けることとし、或いは十声の称名念仏を指すとする。後の説は善導の主張する説で、源空や親鸞が受けついだもの。特に浄土教ではこれを強調する。 →十念

③ また極めて短い時間を念と称することがあり、一刹那或いは六〇刹那或いは九〇刹那などを一念とする。 →一念(仏教学辞典)

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