「尽十方無碍光如来」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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阿弥陀仏の徳をあらわす名で、<kana>[[天親]](てんじん)</kana>菩薩の『浄土論』に示されている。[[智慧]]の光をもって<kana>十方(じっぽう)</kana>世界を照らして、さわりなく<kana>[[衆生]](しゅじょう)</kana>を救いたもう如来という意。→<kana>[[阿弥陀仏]](あみだぶつ)</kana>。 | 阿弥陀仏の徳をあらわす名で、<kana>[[天親]](てんじん)</kana>菩薩の『浄土論』に示されている。[[智慧]]の光をもって<kana>十方(じっぽう)</kana>世界を照らして、さわりなく<kana>[[衆生]](しゅじょう)</kana>を救いたもう如来という意。→<kana>[[阿弥陀仏]](あみだぶつ)</kana>。 | ||
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+ | じんじっぽう-むげこうにょらい 尽十方無礙光如来 | ||
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+ | [[阿弥陀仏]]の徳をあらわす名で、十方世界を照らし尽くす[[無礙]]の[[光明]]によって[[衆生]]を救う[[如来]]という意。→[[帰命尽十方無礙光如来]](浄土真宗辞典) | ||
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+ | 御開山は、『尊号真像銘文』で、 | ||
+ | :「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。「[[無碍]]」といふはさはることなしとなり、[[さはる]]ことなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。 | ||
+ | :「[[光如来]]」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。 | ||
+ | と、尽十方+無碍+光+如来と分節され、光の如来とされていた。仏教では「光」とは[[智慧]]の意である。→[[光如来]] | ||
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+ | [[Category:追記]]<p id="page-top">[[#|▲]]</p> |
2024年2月16日 (金) 12:41時点における最新版
じんじっぽう-むげこうにょらい
阿弥陀仏の徳をあらわす名で、
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
御開山は、『尊号真像銘文』で、
- 「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。
- 「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。