「約束」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | + | 「約束」とは「束を結んでまとめる(約)という意から、自己の行動を他者に言明し、その実現が確実視されている」という意味が本来であり、浄土真宗での約束という表現は、[[法蔵菩薩]]と師仏である[[世自在王如来]]との関係を指す語である。現代語でいう人と人の「お互いに、取り決めを行うこと」という意味ではないので注意すること。いわば我々は、法蔵菩薩に背負われ、法蔵菩薩が師仏である世自在王仏の前にひざまずいて、こやつを必ず浄土に往生させて仏にします、という誓願(御約束)を[[因位]]の阿弥陀仏に背負われながら聞くことをいふのであった。御開山は、この[[因位]]の阿弥陀仏(法蔵菩薩)の'''御約束'''(誓願)がすでに成就したことを「[[仏願の生起本末]]」を[[聞信]]せよと言われたのであった。[[悲智]]不ニの仏身が法蔵から弥陀へという相(すがた)の示現が「[[仏願の生起本末]]」であった。<br /> | |
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:『宝号経』にのたまはく、「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏名をたもつなり」。名号はこれ善なり行なり、行といふは善をするについていふことばなり。{{DotUL|本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、善にあらず行にあらざるなり。かるがゆゑに[[他力]]とは申すなり}}。本願の名号は能生する因なり、能生の因といふは、すなはちこれ父なり。大悲の光明はこれ所生の縁なり。所生の縁といふはすなはちこれ母なり。 ([[消息下#P--807|消息 P.807]]) | :『宝号経』にのたまはく、「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏名をたもつなり」。名号はこれ善なり行なり、行といふは善をするについていふことばなり。{{DotUL|本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、善にあらず行にあらざるなり。かるがゆゑに[[他力]]とは申すなり}}。本願の名号は能生する因なり、能生の因といふは、すなはちこれ父なり。大悲の光明はこれ所生の縁なり。所生の縁といふはすなはちこれ母なり。 ([[消息下#P--807|消息 P.807]]) | ||
− | + | と、仏と仏との'''御約束'''であるから、衆生にとって名号は「善にあらず行にあらざるなり」(非行非善)と衆生の自力(はからい)を否定する意味とされていた。 | |
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2018年10月7日 (日) 01:25時点における版
やくそく
「約束」とは「束を結んでまとめる(約)という意から、自己の行動を他者に言明し、その実現が確実視されている」という意味が本来であり、浄土真宗での約束という表現は、法蔵菩薩と師仏である世自在王如来との関係を指す語である。現代語でいう人と人の「お互いに、取り決めを行うこと」という意味ではないので注意すること。いわば我々は、法蔵菩薩に背負われ、法蔵菩薩が師仏である世自在王仏の前にひざまずいて、こやつを必ず浄土に往生させて仏にします、という誓願(御約束)を因位の阿弥陀仏に背負われながら聞くことをいふのであった。御開山は、この因位の阿弥陀仏(法蔵菩薩)の御約束(誓願)がすでに成就したことを「仏願の生起本末」を聞信せよと言われたのであった。悲智不ニの仏身が法蔵から弥陀へという相(すがた)の示現が「仏願の生起本末」であった。
この意を御消息では、
- 『宝号経』にのたまはく、「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏名をたもつなり」。名号はこれ善なり行なり、行といふは善をするについていふことばなり。本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、善にあらず行にあらざるなり。かるがゆゑに他力とは申すなり。本願の名号は能生する因なり、能生の因といふは、すなはちこれ父なり。大悲の光明はこれ所生の縁なり。所生の縁といふはすなはちこれ母なり。 (消息 P.807)
と、仏と仏との御約束であるから、衆生にとって名号は「善にあらず行にあらざるなり」(非行非善)と衆生の自力(はからい)を否定する意味とされていた。