「二河の譬喩」の版間の差分
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2018年8月25日 (土) 17:27時点における版
にがのひゆ
ある人が西に向かって独り進んで行くと、無人の原野に忽然として水火の二河に出会う。火の河は南に、水の河は北に、河の幅はそれぞれわずかに百歩ほどであるが、深くて底なく、また南北に辺はない。ただ中間に一筋の白道があるばかりだが、幅四五寸で水火が常に押し寄せている。そこへ後方・南北より群賊悪獣が殺そうと迫ってくる。このように往くも還るも止まるも死を免れえない、ひとつとして死を免れえない。
しかし思い切って白道を進んで行こうと思った時、東の岸より「この道をたづねて行け」と勧める声(発遣)が、また西の岸より「直ちに来れ、我よく汝を護らん」と呼ぶ声(招喚)がする。東岸の群賊たちは危険だから戻れと誘うが顧みず、一心に疑いなく進むと西岸に到達し、諸難を離れ善友と相
火の河は衆生の瞋憎、水の河は貪愛、無人の原野は真の善知識に遇わないことを、群賊は別解・別行・異学・異見の人、悪獣は衆生の六識・六根・五蘊・四大に喩える。また白道は浄土往生を願う清浄の信心、また本願力をあらわす。東岸の声は娑婆世界における釈尊の発遣の教法、西岸の声は浄土の阿弥陀仏の本願の招喚に喩える。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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人間の究極の拠り所は念仏しかないことの譬喩として、曇鸞大師の『略論安楽浄土義』の「下輩の十念相続」や道綽禅師の『安楽集』「広施問答」に同類に譬喩がある。
善導大師は、このような両師の著述を参照しつつ独自の信心守護の譬喩を創作したのであろう。