「行信不離」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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阿弥陀仏より[[回向]]された、行(なんまんだぶ)と疑いなき[[信心]]は不離であること。<br /> | 阿弥陀仏より[[回向]]された、行(なんまんだぶ)と疑いなき[[信心]]は不離であること。<br /> | ||
− | 仏教が、哲学や通常の思想と最も異なる点は'''[[行]]''' | + | 仏教が、哲学や通常の思想と最も異なる点は'''[[行]]'''の有無である。仏教は「信解行証」といい実践しなければ意味がなく、日々の生活の中で教えが実行できてこそ、仏道の真の具体的意味がある。浄土真宗では信を強調するのだが、行なき信はなく、また信なき行もないのである。行なき信は観念の遊戯であり、信なき行は不安の叫びである、といわれる所以である。<br /> |
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:[[信の一念]]・[[行の一念]]ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、[[行の一念]]をはなれたる[[信の一念]]もなし。<br /> | :[[信の一念]]・[[行の一念]]ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、[[行の一念]]をはなれたる[[信の一念]]もなし。<br /> | ||
:そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを[[信の一念]]と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。 ([[消息上#no7|消息 P.749]]) | :そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを[[信の一念]]と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。 ([[消息上#no7|消息 P.749]]) | ||
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2018年9月22日 (土) 11:41時点における版
ぎょうしんーふり
阿弥陀仏より回向された、行(なんまんだぶ)と疑いなき信心は不離であること。
仏教が、哲学や通常の思想と最も異なる点は行の有無である。仏教は「信解行証」といい実践しなければ意味がなく、日々の生活の中で教えが実行できてこそ、仏道の真の具体的意味がある。浄土真宗では信を強調するのだが、行なき信はなく、また信なき行もないのである。行なき信は観念の遊戯であり、信なき行は不安の叫びである、といわれる所以である。
この行信不離の意を御開山は、
と、行と信は、行信不離であるといわれていた。