「もし一心少けぬれば」の版間の差分
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そして「もし一心少(か)けぬればすなはち生ずることを得ず」とされておられるのは深心がかけているから「すなはち生ずることを得ず」とされたのである。 | そして「もし一心少(か)けぬればすなはち生ずることを得ず」とされておられるのは深心がかけているから「すなはち生ずることを得ず」とされたのである。 | ||
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:もし一心少けぬればすなはち生ずることを得ず。『観経』につぶさに説くがごとし、知るべしと。 ([[化巻本#no24|化巻 P.388]]) | :もし一心少けぬればすなはち生ずることを得ず。『観経』につぶさに説くがごとし、知るべしと。 ([[化巻本#no24|化巻 P.388]]) | ||
− | ここで省略されている深心釈は、『[[礼懺儀]]』として、真実行をあらわす「行巻」([[行巻#no76|行巻 P.188]])で引文され、また真実信心をあらわす「信巻」([[信巻本#P--228|信巻 P.228]]) | + | ここで省略されている深心釈は、『[[礼懺儀]]』として、真実行をあらわす「行巻」([[行巻#no76|行巻 P.188]])で引文され、また真実信心をあらわす「信巻」([[信巻本#P--228|信巻 P.228]])で引文されておられる。このように『観経』の三心を深心中心にみられるのは、法然聖人が『西方指南抄」所収の「十七条御法語」で、 |
:又云、導和尚、深心を釈せむがために、余の二心を釈したまふ也。経の文の三心をみるに、一切行なし、深心の釈にいたりて、はじめて念仏行をあかすところ也。([[hwiki:西方指南抄/中本#P--132|十七条御法語]]) | :又云、導和尚、深心を釈せむがために、余の二心を釈したまふ也。経の文の三心をみるに、一切行なし、深心の釈にいたりて、はじめて念仏行をあかすところ也。([[hwiki:西方指南抄/中本#P--132|十七条御法語]]) | ||
− | + | などの意を承け、『観経』の三心を深心に納め、この深心を開いてあるのが『大経』の至心・[[信楽]]・欲生の三信(心)であると見られたのである。そしてこの三信が、至心は如来の[[智慧]]の[[名号]]であり、欲生は如来の[[招喚]]の大慈悲心であり、[[信楽]]一心に納まると見られたのであろう。そして、それは『浄土論の』「世尊我一心」の「[[一心の華文]]」であった。 | |
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2018年12月17日 (月) 02:02時点における版
もし-いっしん-かけぬれば
「化巻」で『往生礼讃』の三心釈を引文されるのだが、下記のように「真実の信心なり」である深心釈を乃至して省略されておられる。『往生礼讃』の至誠心釈は、真実心をもって三業を起こす自利真実の意であり、回向発願心釈は、一切の善根を回向して浄土往生を願生する自力の願生心であるとみられたからであろう。
そして「もし一心少(か)けぬればすなはち生ずることを得ず」とされておられるのは深心がかけているから「すなはち生ずることを得ず」とされたのである。
- 『観経』の説のごとし。まづ三心を具してかならず往生を得。なんらをか三つとする。
- 一つには至誠心。いはゆる身業にかの仏を礼拝す、口業にかの仏を讃嘆し称揚す、意業にかの仏を専念し観察す。およそ三業を起すに、かならず真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。{乃至}
乃至された文。
- 二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。
- 三つには回向発願心。所作の一切の善根、ことごとくみな回して往生を願ず、ゆゑに回向発願心と名づく。この三心を具してかならず生ずることを得るなり。
- もし一心少けぬればすなはち生ずることを得ず。『観経』につぶさに説くがごとし、知るべしと。 (化巻 P.388)
ここで省略されている深心釈は、『礼懺儀』として、真実行をあらわす「行巻」(行巻 P.188)で引文され、また真実信心をあらわす「信巻」(信巻 P.228)で引文されておられる。このように『観経』の三心を深心中心にみられるのは、法然聖人が『西方指南抄」所収の「十七条御法語」で、
- 又云、導和尚、深心を釈せむがために、余の二心を釈したまふ也。経の文の三心をみるに、一切行なし、深心の釈にいたりて、はじめて念仏行をあかすところ也。(十七条御法語)
などの意を承け、『観経』の三心を深心に納め、この深心を開いてあるのが『大経』の至心・信楽・欲生の三信(心)であると見られたのである。そしてこの三信が、至心は如来の智慧の名号であり、欲生は如来の招喚の大慈悲心であり、信楽一心に納まると見られたのであろう。そして、それは『浄土論の』「世尊我一心」の「一心の華文」であった。