「疑情」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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本来、信の反対語は不信なのだが、法然聖人は『選択集』三心章(p.1248)で、『観経』の深心を釈され、 | 本来、信の反対語は不信なのだが、法然聖人は『選択集』三心章(p.1248)で、『観経』の深心を釈され、 | ||
:次に「深心」とは、いはく深信の心なり。まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。 ([[選択本願念仏集 (七祖)#P--1248|選択集 P.1248]]) | :次に「深心」とは、いはく深信の心なり。まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。 ([[選択本願念仏集 (七祖)#P--1248|選択集 P.1248]]) | ||
− | + | と、深心(深い心)は深信の心(深く信じる心)であるとされ、生死輪廻の家にとどまるのは本願を疑うからであり、覚りの城(みやこ)に入るのは本願を信ずるからであると、信と疑によっての涅槃の得失を対判された。親鸞聖人が「正信念仏偈」で、 | |
:還来生死輪転家 決以疑情為所止 | :還来生死輪転家 決以疑情為所止 | ||
::生死輪転の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情をもつて所止とす。 | ::生死輪転の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情をもつて所止とす。 | ||
:速入寂静無為楽 必以信心為能入 | :速入寂静無為楽 必以信心為能入 | ||
::すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。 | ::すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。 | ||
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親鸞聖人は三心一心の字訓釈で、第十八願の至心・信楽・欲生を、それぞれ<kana>[[疑蓋無雑]](ぎがいむぞう)</kana>とされたのはこれに基づく。あらゆるものを平等に[[救済]]するという阿弥陀如来の本願力を疑い、自らが拵えた疑いの蓋を雑えで遮蔽していることを疑というのである。救いの法は光明・名号摂化十方と現に届いているのであり、これを受け入れないことを浄土真宗では根本無明の痴無明と区別して疑無明とよぶ。「行巻」破闇満願釈で、「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の[[無明]]を破」す、とされる由縁である。→[[称名破満]]<br /> | 親鸞聖人は三心一心の字訓釈で、第十八願の至心・信楽・欲生を、それぞれ<kana>[[疑蓋無雑]](ぎがいむぞう)</kana>とされたのはこれに基づく。あらゆるものを平等に[[救済]]するという阿弥陀如来の本願力を疑い、自らが拵えた疑いの蓋を雑えで遮蔽していることを疑というのである。救いの法は光明・名号摂化十方と現に届いているのであり、これを受け入れないことを浄土真宗では根本無明の痴無明と区別して疑無明とよぶ。「行巻」破闇満願釈で、「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の[[無明]]を破」す、とされる由縁である。→[[称名破満]]<br /> | ||
なお、[[不審]]と疑心は違う概念であり、これを混同すると仏教の信の意味を誤解することになる。不審とは審(つまび)らかではないという意で、より深く本願の意味を知り、かつ味わいたいという問いの意であって、本願に対する疑情とは峻別すべきものである。親鸞聖人が唯円房の問いに「親鸞もこの不審ありつるに」(歎異抄9条)と、仰せられたごとくである。<br /> | なお、[[不審]]と疑心は違う概念であり、これを混同すると仏教の信の意味を誤解することになる。不審とは審(つまび)らかではないという意で、より深く本願の意味を知り、かつ味わいたいという問いの意であって、本願に対する疑情とは峻別すべきものである。親鸞聖人が唯円房の問いに「親鸞もこの不審ありつるに」(歎異抄9条)と、仰せられたごとくである。<br /> | ||
− | + | これを混乱すると、カリスマ(大衆をひきつけ心酔させる力)的な善知識という人師の言葉を考察することなく盲目的に受け入れる[[人惑を受けず|人惑を受ける]]ことになる。人の言葉によって迷い、他人の言葉によって右往左往するのである。あまつさえ組織や善知識に対する不審を問うことすらも、疑情とされてしまうのである。 | |
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2022年7月1日 (金) 02:30時点における版
ぎじょう
阿弥陀仏の本願を疑いはからう心。(行巻 P.207, 浄文 P.489,愚禿上 P.504,高僧 P.597,正信大意 P.1038)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
仏教では、疑とは
本来、信の反対語は不信なのだが、法然聖人は『選択集』三心章(p.1248)で、『観経』の深心を釈され、
- 次に「深心」とは、いはく深信の心なり。まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。 (選択集 P.1248)
と、深心(深い心)は深信の心(深く信じる心)であるとされ、生死輪廻の家にとどまるのは本願を疑うからであり、覚りの城(みやこ)に入るのは本願を信ずるからであると、信と疑によっての涅槃の得失を対判された。親鸞聖人が「正信念仏偈」で、
- 還来生死輪転家 決以疑情為所止
- 生死輪転の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情をもつて所止とす。
- 速入寂静無為楽 必以信心為能入
- すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。
とされた所以である。→生死の家には…
親鸞聖人は三心一心の字訓釈で、第十八願の至心・信楽・欲生を、それぞれ
なお、不審と疑心は違う概念であり、これを混同すると仏教の信の意味を誤解することになる。不審とは審(つまび)らかではないという意で、より深く本願の意味を知り、かつ味わいたいという問いの意であって、本願に対する疑情とは峻別すべきものである。親鸞聖人が唯円房の問いに「親鸞もこの不審ありつるに」(歎異抄9条)と、仰せられたごとくである。
これを混乱すると、カリスマ(大衆をひきつけ心酔させる力)的な善知識という人師の言葉を考察することなく盲目的に受け入れる人惑を受けることになる。人の言葉によって迷い、他人の言葉によって右往左往するのである。あまつさえ組織や善知識に対する不審を問うことすらも、疑情とされてしまうのである。