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「領解」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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と「[[領解]]も[[機]]にはとどまらず」とあるので[[領解]]も固定化するものではない。それは[[本願力回向]]の[[ご法義]]であるから、[[領解]]も[[機]]にはとどまらず、である。
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ご法義の先人は、仏智ふかきがゆえに我が[[領解]]をあさしとす、と云われていた。
  
 
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2023年2月27日 (月) 17:33時点における版

りょうげ

 浄土真宗においては安心(あんじん)・信心と同様に用いられる。

 もともと了の意味で、如来の勅命を受け取り、勅命の通りその道理を理解して身につけることをいう。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

りょうげ 領解

 領納解了(りょうのう-げりょう)の意味で、如来勅命を受け取り、勅命の通りその道理を理解して身につけることをいう。浄土真宗では安心信心の異称として用いられる場合もある。(浄土真宗辞典)

『安心決定鈔』に、

阿弥陀仏凡夫願行を名に成ぜしゆゑを口業にあらはすを、南無阿弥陀仏といふ。かるがゆゑに領解にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる。 名号にはとどまらず、となふればやがて弘願にかへる。かるがゆゑに浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるほかにはなきなり。(安心決定 P.1387)

と「領解にはとどまらず」とあるので領解も固定化するものではない。それは本願力回向ご法義であるから、領解にはとどまらず、である。
ご法義の先人は、仏智ふかきがゆえに我が領解をあさしとす、と云われていた。

トーク:領解
領解文