「領解」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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2023年2月27日 (月) 17:33時点における版
りょうげ
もともと領納解了の意味で、如来の勅命を受け取り、勅命の通りその道理を理解して身につけることをいう。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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『安心決定鈔』に、
- 阿弥陀仏は凡夫の願行を名に成ぜしゆゑを口業にあらはすを、南無阿弥陀仏といふ。かるがゆゑに領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる。 名号も機にはとどまらず、となふればやがて弘願にかへる。かるがゆゑに浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるほかにはなきなり。(安心決定 P.1387)
と「領解も機にはとどまらず」とあるので領解も固定化するものではない。それは本願力回向のご法義であるから、領解も機にはとどまらず、である。
ご法義の先人は、仏智ふかきがゆえに我が領解をあさしとす、と云われていた。