「古今楷定」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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「古今」とは、善導の当時やそれ以前の聖道門の[[諸師]]のことで、特に浄影寺[[慧遠]]・嘉祥寺吉蔵・天台大師[[智顗]]や摂論宗の学徒などを指す。「楷定」とは、手本・基準を確定するという意。善導が、古今の諸師の『観経』に対する見解の誤りをあたためて、規範とすべき正しい解釈を確定したことをいう。またその功績を指す。「散善義に」、 | 「古今」とは、善導の当時やそれ以前の聖道門の[[諸師]]のことで、特に浄影寺[[慧遠]]・嘉祥寺吉蔵・天台大師[[智顗]]や摂論宗の学徒などを指す。「楷定」とは、手本・基準を確定するという意。善導が、古今の諸師の『観経』に対する見解の誤りをあたためて、規範とすべき正しい解釈を確定したことをいう。またその功績を指す。「散善義に」、 | ||
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とある。『観経』について諸師が聖道門の立場から聖者のために説かれた経典としたことに対して、善導は浄土門の立場から「阿弥陀仏の大願強力によって程度の低い凡夫が報土というすぐれた浄土に往生できる」([[凡夫入報]])という凡夫の救いが説かれた経典とした。→[[凡夫入報]] (浄土真宗辞典) | とある。『観経』について諸師が聖道門の立場から聖者のために説かれた経典としたことに対して、善導は浄土門の立場から「阿弥陀仏の大願強力によって程度の低い凡夫が報土というすぐれた浄土に往生できる」([[凡夫入報]])という凡夫の救いが説かれた経典とした。→[[凡夫入報]] (浄土真宗辞典) | ||
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:これ如来、衆生惑ひを置きて、[夫人はこれ聖にして凡にあらずといひて疑を起すによるがゆゑにすなはちみづから怯弱を生じ、しかるに韋提は現にこれ菩薩にしてかりに凡身を示す、われら罪人比及するに由なしといふことを恐る。この疑を断ぜんがためのゆゑに「汝是凡夫」とのたまふことを明かす。 「心想羸劣」といふは、これ凡なるによるがゆゑにかつて大志なし。([[観経疏 序分義 (七祖)#P--390|序分義 P.390]]) | :これ如来、衆生惑ひを置きて、[夫人はこれ聖にして凡にあらずといひて疑を起すによるがゆゑにすなはちみづから怯弱を生じ、しかるに韋提は現にこれ菩薩にしてかりに凡身を示す、われら罪人比及するに由なしといふことを恐る。この疑を断ぜんがためのゆゑに「汝是凡夫」とのたまふことを明かす。 「心想羸劣」といふは、これ凡なるによるがゆゑにかつて大志なし。([[観経疏 序分義 (七祖)#P--390|序分義 P.390]]) | ||
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+ | と悪人往生の義を明かされておられる。<ref>御開山は文面上に明らかに現れていることを「顕」とし、文面上には見えないが義としてある場合は「彰」とされた。ここでは、凡夫を指して、機であると「彰す」であるから経文の上には見えないが義として悪人が往生の機の意味があるということ。悪人正機という言い方はされておられないことに注意。</ref> | ||
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+ | 『観経』は聖者のために説かれた経典ではなく、為凡の経(凡夫の為の経)であるとされたのであった。それはまた、 | ||
:諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。 また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。([[観経疏 玄義分 (七祖)#諸仏大悲於苦者|玄義分 P.312]]) | :諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。 また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。([[観経疏 玄義分 (七祖)#諸仏大悲於苦者|玄義分 P.312]]) | ||
− | + | という、大悲の緊急のまなざしの視点が誰に焦点を結ぶかという意をあらわすので、御開山は「善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪(善導独り仏の正意をあきらかにせり。定散と逆悪とを矜哀して)」([[行巻#善導章|行巻 P.206]]) と讃詠されておられるのであった。 | |
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+ | *漢字の用例は故事来歴を知らないと間違うこともあるので要注意。→[http://www.kanjipedia.jp/kanji/0000814400 楷] | ||
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2017年12月19日 (火) 20:13時点における版
ここん-かいじょう
「古今」とは、善導の当時やそれ以前の聖道門の諸師のことで、特に浄影寺慧遠・嘉祥寺吉蔵・天台大師智顗や摂論宗の学徒などを指す。「楷定」とは、手本・基準を確定するという意。善導が、古今の諸師の『観経』に対する見解の誤りをあたためて、規範とすべき正しい解釈を確定したことをいう。またその功績を指す。「散善義に」、
某 、いまこの『観経』の要義を出して、古今を楷定せんと欲す。散善義 P.502)
とある。『観経』について諸師が聖道門の立場から聖者のために説かれた経典としたことに対して、善導は浄土門の立場から「阿弥陀仏の大願強力によって程度の低い凡夫が報土というすぐれた浄土に往生できる」(凡夫入報)という凡夫の救いが説かれた経典とした。→凡夫入報 (浄土真宗辞典)
聖道門の諸師は『観経』の主人公である韋提希を高位の菩薩であるとみた。それに対して善導大師は韋提希は凡夫であるとされた。
- これ如来、衆生惑ひを置きて、[夫人はこれ聖にして凡にあらずといひて疑を起すによるがゆゑにすなはちみづから怯弱を生じ、しかるに韋提は現にこれ菩薩にしてかりに凡身を示す、われら罪人比及するに由なしといふことを恐る。この疑を断ぜんがためのゆゑに「汝是凡夫」とのたまふことを明かす。 「心想羸劣」といふは、これ凡なるによるがゆゑにかつて大志なし。(序分義 P.390)
と、『観経』の「汝是凡夫心想羸劣(なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり)」(観経 P.93) の語により、韋提希は凡夫であるとされ、御開山は十三文例で、
と悪人往生の義を明かされておられる。[1]
『観経』は聖者のために説かれた経典ではなく、為凡の経(凡夫の為の経)であるとされたのであった。それはまた、
- 諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。 また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。(玄義分 P.312)
という、大悲の緊急のまなざしの視点が誰に焦点を結ぶかという意をあらわすので、御開山は「善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪(善導独り仏の正意をあきらかにせり。定散と逆悪とを矜哀して)」(行巻 P.206) と讃詠されておられるのであった。
- 漢字の用例は故事来歴を知らないと間違うこともあるので要注意。→楷
- ↑ 御開山は文面上に明らかに現れていることを「顕」とし、文面上には見えないが義としてある場合は「彰」とされた。ここでは、凡夫を指して、機であると「彰す」であるから経文の上には見えないが義として悪人が往生の機の意味があるということ。悪人正機という言い方はされておられないことに注意。