古今楷定

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ここん-かいじょう

 「古今」とは、善導の当時やそれ以前の聖道門の諸師のことで、特に浄影寺慧遠・嘉祥寺吉蔵・天台大師智顗や摂論宗の学徒などを指す。「楷定」とは、手本・基準を確定するという意。善導が、古今の諸師の『観経』に対する見解の誤りをあたためて、規範とすべき正しい解釈を確定したことをいう。またその功績を指す。「散善義に」、

(それがし)、いまこの『観経』の要義を出して、古今を楷定せんと欲す。(散善義 P.502)

とある。『観経』について諸師が聖道門の立場から聖者のために説かれた経典としたことに対して、善導は浄土門の立場から「阿弥陀仏の大願強力によって程度の低い凡夫が報土というすぐれた浄土に往生できる」(凡夫入報)という凡夫の救いが説かれた経典とした。→凡夫入報 (浄土真宗辞典)

聖道門の諸師は『観経』を高位の菩薩の為の経であるとみた。→観無量寿経義疏 慧遠撰 それに対して善導大師は『観経』の主人公の韋提希は凡夫であり『観経』はこの韋提希を救う凡夫の為の経(為凡の経)であるとされた。

これ如来、衆生惑ひを置きて、[夫人はこれ聖にして凡にあらずといひて疑を起すによるがゆゑにすなはちみづから怯弱を生じ、しかるに韋提は現にこれ菩薩にしてかりに凡身を示す、われら罪人比及するに由なしといふことを恐る。この疑を断ぜんがためのゆゑに「汝是凡夫」とのたまふことを明かす。 「心想羸劣」といふは、これ凡なるによるがゆゑにかつて大志なし。(序分義 P.390)

と、『観経』の「汝是凡夫心想羸劣(なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり)」(観経 P.93) の経文により、韋提希は凡夫であるとされ、御開山は十三文例で、

汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。(化巻 P.382)

と悪人往生の義を明かされておられる。[1]

『観経』は聖者のために説かれた経典ではなく、為凡の経(凡夫の為の経)であるとされたのであった。それはまた、

諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。 また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。(玄義分 P.312)

という、大悲の緊急のまなざしの視点が誰に焦点を結ぶかという意をあらわすので、御開山は善導大師の釈功を「正信念仏偈」で「善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪(善導独り仏の正意をあきらかにせり。定散と逆悪とを矜哀して)」(行巻 P.206) と讃詠されておられるのであった。これを「古今楷定」というのである。

  • 漢字の用例は故事来歴を知らないと間違うこともあるので要注意。→
凡夫入報
別時意
四種浄土

  1. 御開山は文面上に明らかに現れていることを「顕」とし、文面上には見えないが義としてある場合は「彰」とされた。ここでは、凡夫を指して、機であると「彰す」であるから経文の上には見えないが義として悪人が往生の機の意味があるということ。悪人正機という言い方はされておられないことに注意。なお「総序」などでは韋提希を「権化の仁」として浄土から穢土へ示現した還相の菩薩としてみておられる場合もある。これは、あらゆるものがわたくしをして浄土を欣わしめようという大悲の顕現であると領解されたのであろう。それはまた「後序」で「もしこの書を見聞せんもの、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと」(化巻 P.473)と、疑謗までも縁とせよというお示しであった。仏願の生起本末聴聞した浄土真宗の門徒は、これを「お育て」といふ。