操作

「称」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

10行目: 10行目:
 
:「称」は御なをとなふるとなり、また{{DotUL|称ははかりといふこころなり}}、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなふべし」となり。 ([[一多#P--694|一多 P.694]])
 
:「称」は御なをとなふるとなり、また{{DotUL|称ははかりといふこころなり}}、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなふべし」となり。 ([[一多#P--694|一多 P.694]])
 
と、称に「となふる」「はかり」という義をあげられていた。
 
と、称に「となふる」「はかり」という義をあげられていた。
それは「行巻」で論註の「讃歎門釈」を引かれて、
+
それは「行巻」で『論註』の「讃歎門釈」を引かれて、
 
:なにをもつてか知らん、尽十方無碍光如来はこれ讃嘆門なりとは。下の長行のなかにいはく、〈いかんが[[讃嘆]]する、いはく、かの如来の名を称(称の字、軽重を知るなり。『説文』にいはく、銓なり、是なり、等なり、俗に'''秤'''に作る、斤両を正すをいふなり)す。かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく、修行し相応せんと欲ふがゆゑに〉と。([[行巻#P--156|行巻 P.156]])
 
:なにをもつてか知らん、尽十方無碍光如来はこれ讃嘆門なりとは。下の長行のなかにいはく、〈いかんが[[讃嘆]]する、いはく、かの如来の名を称(称の字、軽重を知るなり。『説文』にいはく、銓なり、是なり、等なり、俗に'''秤'''に作る、斤両を正すをいふなり)す。かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく、修行し相応せんと欲ふがゆゑに〉と。([[行巻#P--156|行巻 P.156]])
といい、称を秤(はかり) の意味とされていた。──秤は 稱の俗字といわれる。──<br />
+
といい、称を秤(はかり) の意味とされていた。──秤は 称(稱)の俗字といわれる。──<br />
 
「称」を「はかり」とよまれたのは称名は「無碍光如来」の名号の徳のとおりに、衆生の疑いの闇を破り(破闇) 往生成仏の志願(満願) を満足せしめる用(はたらき)があるということを示そうとされたのであろう。仏徳を真に知るがゆえに、その仏の徳を「ほめる」ことは如実の讃嘆といえる。だが、煩悩に覆われた衆生には、[[真如法性]]から顕現する「無碍光如来」の徳を如実(真実の如く) に讃嘆することは不可能である。<br />
 
「称」を「はかり」とよまれたのは称名は「無碍光如来」の名号の徳のとおりに、衆生の疑いの闇を破り(破闇) 往生成仏の志願(満願) を満足せしめる用(はたらき)があるということを示そうとされたのであろう。仏徳を真に知るがゆえに、その仏の徳を「ほめる」ことは如実の讃嘆といえる。だが、煩悩に覆われた衆生には、[[真如法性]]から顕現する「無碍光如来」の徳を如実(真実の如く) に讃嘆することは不可能である。<br />
しかし、阿弥陀仏の〔み名〕を称えることで、如実に阿弥陀仏の徳を讃嘆する{{DotUL|ことになる}}ということをあらわそうとされて、「称」を「はかり」とよまれたのであろう。<br />
+
しかし、阿弥陀仏の〔み名〕を称えることは、如実に阿弥陀仏の徳を讃嘆する{{DotUL|ことになる}}ということをあらわそうとされて、「称」を「はかり」とよまれたのであろう。<br />
 
『尊号真像銘文』の「光明寺善導和尚真像銘文」で、
 
『尊号真像銘文』の「光明寺善導和尚真像銘文」で、
 
:「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字を{{DotUL|となふるとなり}}。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるに{{DotUL|なるとなり}}。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するに{{DotUL|なると申すなり}}。([[尊号真像銘文#P--655|尊号 P.655]])
 
:「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字を{{DotUL|となふるとなり}}。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるに{{DotUL|なるとなり}}。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するに{{DotUL|なると申すなり}}。([[尊号真像銘文#P--655|尊号 P.655]])

2018年5月19日 (土) 01:34時点における版

しょう

 称揚の意で、(名号)をほめたたえること。(大経 P.18,行巻 P.141,三経 P.625,二種 P.721)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

称には、となえるの他に、たたえる・かなう・はかる・ほめる・あげる等の意味がある。 →
御開山は『一念多念証文』で、

「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなふべし」となり。 (一多 P.694)

と、称に「となふる」「はかり」という義をあげられていた。 それは「行巻」で『論註』の「讃歎門釈」を引かれて、

なにをもつてか知らん、尽十方無碍光如来はこれ讃嘆門なりとは。下の長行のなかにいはく、〈いかんが讃嘆する、いはく、かの如来の名を称(称の字、軽重を知るなり。『説文』にいはく、銓なり、是なり、等なり、俗にに作る、斤両を正すをいふなり)す。かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく、修行し相応せんと欲ふがゆゑに〉と。(行巻 P.156)

といい、称を秤(はかり) の意味とされていた。──秤は 称(稱)の俗字といわれる。──
「称」を「はかり」とよまれたのは称名は「無碍光如来」の名号の徳のとおりに、衆生の疑いの闇を破り(破闇) 往生成仏の志願(満願) を満足せしめる用(はたらき)があるということを示そうとされたのであろう。仏徳を真に知るがゆえに、その仏の徳を「ほめる」ことは如実の讃嘆といえる。だが、煩悩に覆われた衆生には、真如法性から顕現する「無碍光如来」の徳を如実(真実の如く) に讃嘆することは不可能である。
しかし、阿弥陀仏の〔み名〕を称えることは、如実に阿弥陀仏の徳を讃嘆することになるということをあらわそうとされて、「称」を「はかり」とよまれたのであろう。
『尊号真像銘文』の「光明寺善導和尚真像銘文」で、

「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。(尊号 P.655)

と釈しておられた。通常ならば讃嘆を「南無阿弥陀仏の六字をとなふるなり」とか「仏をほめたてまつるなり」、また「懺悔するなり」と訓ずるべきである。それを、あえて「なるとなり」と訓じたところに、我ら凡夫が口に〔なんまんだぶ〕と称えることが「如実修行相応」である意をあらわそうとされたのであろう。
「信心正因」を論じる「信巻」の信楽釈を決して、

『論の註』にいはく、「如実修行相応と名づく。このゆゑに論主(天親)、建めに〈我一心〉とのたまへり」と。(信巻 P.241)

とされ、至心・信楽・欲生の三信を結釈し、

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主建めに「我一心」とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」とのたまへり。 (信巻 P.245)

とされ、本願成就文を釈された「三心一心総結」として、

ゆゑに知んぬ、一心これを如実修行相応と名づく。すなはちこれ正教なり、これ正義なり、これ正行なり、これ正解なり、これ正業なり、これ正智なり。(信巻 P.253)

と、浄土真宗の信は、なんまんだぶを称え聞く「如実修行相応」の信心であった。なんまんだぶを称えることは、阿弥陀如来の仏徳を過不足なく如実に讃嘆することであり、それは「破闇満願」という往生浄土の「業因」であった。 それはまた、法然聖人の教道を感佩し、

『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。

と、示された念仏往生の正因であった。近代教学や現代教学に騙されて、〔なんまんだぶ〕と称えて往生浄土を期するという教説を理解できない僧俗が居る。しかして、越前の、本当にご法義を受容した門徒からみれば、現今の僧分は愚直に〔なんまんだぶ〕を称え往生を期する御開山の門徒を信心という名目で愚弄しているのであった。実践を知らない高等遊民の坊主が陥りやすい陥穽ではあった(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ