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「称名破満」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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称名破満 しょうみょうはまん
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『論註』では「かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」と、名号の「破闇満願」を示されていたが、御開山は「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」と、称名によって「破闇満願」を顕しておられた。宗学では法体名号を論ずるのであるが、素直に口業の称名である「なんまんだぶ」ととった方が判りやすいと思ふ。
 
『論註』では「かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」と、名号の「破闇満願」を示されていたが、御開山は「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」と、称名によって「破闇満願」を顕しておられた。宗学では法体名号を論ずるのであるが、素直に口業の称名である「なんまんだぶ」ととった方が判りやすいと思ふ。
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2019年12月19日 (木) 18:31時点における版

称名破満 しょうみょう-はまん

 称名によって衆生無明の闇が破られ (破闇(はあん))、往生成仏の志願が満たされる (満願(まんがん)) ことをいう。曇鸞は『論註』讃嘆門釈に

「かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」(信巻引文・註 214)

といい、その後、名号には破闇満願のはたらきがあるのに、称名憶念しても破満しないのはなぜかと問い、二知 (実相身為物身を知ること)・三信(淳心・一心・相続心)の如実修行相応でなければならないと答える。これをうけて親鸞は、その名号が衆生の上にあらわれ出た他力の称名念仏にも破闇満願のはたらきがあることを示し、「行巻」に

名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり」(註 146)

と述べている。 →大行  →三不三信。(浄土真宗辞典)

『論註』では「かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」と、名号の「破闇満願」を示されていたが、御開山は「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」と、称名によって「破闇満願」を顕しておられた。宗学では法体名号を論ずるのであるが、素直に口業の称名である「なんまんだぶ」ととった方が判りやすいと思ふ。

正定業
称名破満の釈義