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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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法然聖人は以下の『無量寿経釈』第七大門を引き、
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法然聖人は以下の『無量寿経釈』で以下の『安楽集』の第七大門の文を引き、
  
 
:若依此方修治断除、先断見惑離三塗因、滅三塗果。
 
:若依此方修治断除、先断見惑離三塗因、滅三塗果。
:後断修惑 離人天因、絶人天果。此皆漸次断除、不名横截。若得往生弥陀浄国、娑婆五道:一時頓捨。故名横截五悪趣{者} 截其果也。
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:後断修惑 離人天因、絶人天果。此皆漸次断除、不名横截。若得往生弥陀浄国、娑婆五道、一時頓捨。故名横截五悪趣{者} 截其果也。
::もしこの方の[[修治断除]]によらば、先づ[[見惑]]を断じて三塗の因を離れ、三塗の果を滅す。後に[[修惑]]を断じて人天の因を離れ、人天の果を絶つ。 これみな'''漸次'''に断除すれば、'''横截'''と名づけず。 もし弥陀の浄国に往生することを得れば、[[娑婆]]の[[五道]]一時に頓(たちまち)に捨つ。 ゆゑに「'''[[横截五悪趣]]'''」と名づくるはその果を截(き)るなり。([[安楽集 (七祖)#P--274|安楽集 P.274]])
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::もしこの方の[[修治断除]]によらば、先づ[[見惑]]を断じて三塗の因を離れ、三塗の果を滅す。後に[[修惑]]を断じて人天の因を離れ、人天の果を絶つ。 これみな'''漸次'''に断除すれば、'''横截'''と名づけず。 {{DotUL|もし弥陀の浄国に往生することを得れば、[[娑婆]]の[[五道]]一時に頓(たちまち)に捨つ。}} ゆゑに「'''[[横截五悪趣]]'''」と名づくるはその果を截(き)るなり。([[安楽集 (七祖)#P<br />
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--274|安楽集 P.274]])
 
と『大経』には'''[[横截五悪趣]]'''とあるから『大経』は「頓の中の頓」の法であるとされ、
 
と『大経』には'''[[横截五悪趣]]'''とあるから『大経』は「頓の中の頓」の法であるとされ、
 
:天台眞言 皆雖名頓敎 斷惑故 猶是漸敎也。未斷惑 出過三界之長迷故 以此敎爲頓中頓也。(『浄土真宗聖典全書』六『無量寿経釈』p.280)
 
:天台眞言 皆雖名頓敎 斷惑故 猶是漸敎也。未斷惑 出過三界之長迷故 以此敎爲頓中頓也。(『浄土真宗聖典全書』六『無量寿経釈』p.280)
 
::天台、真言みな[[頓教]]と名づくといへども、惑を断ずるが故になおこれ[[漸教]]なり。いまだ惑を断ぜずして、三界の長迷を出過するが故に、この教(無量寿経)を以って頓中の頓となすなり。
 
::天台、真言みな[[頓教]]と名づくといへども、惑を断ずるが故になおこれ[[漸教]]なり。いまだ惑を断ぜずして、三界の長迷を出過するが故に、この教(無量寿経)を以って頓中の頓となすなり。
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と、聖道門は[[頓教]]と称しているが、内実は漸次に迷いを断じてさとりを得る[[漸教]]である。それに比して『大無量寿経』の阿弥陀仏の[[第十八願]]「<kana>欲生我国(よくしょう-がこく)</kana> <kana>乃至十念(ないし-じゅうねん)</kana>。<kana>若不生者(にゃくふ-しょうじゃ)</kana> <kana>不取正覚(ふしゅ-しょうがく)</kana> (わが国に生ぜんと<kana>欲(おも)</kana>ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ)」に立脚する浄土門は、本願を信じ念仏を申さば、横に[[五悪趣]]を截(き)り、'''[[悪趣]]'''自然に閉ぢる仏陀のさとりの浄土の世界へ往生するのであった。<br />
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この意を法然聖人は、
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:聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる。
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といわれたのであった。
  
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2021年9月30日 (木) 22:26時点における版

法然聖人は以下の『無量寿経釈』で以下の『安楽集』の第七大門の文を引き、

若依此方修治断除、先断見惑離三塗因、滅三塗果。
後断修惑 離人天因、絶人天果。此皆漸次断除、不名横截。若得往生弥陀浄国、娑婆五道、一時頓捨。故名横截五悪趣{者} 截其果也。
もしこの方の修治断除によらば、先づ見惑を断じて三塗の因を離れ、三塗の果を滅す。後に修惑を断じて人天の因を離れ、人天の果を絶つ。 これみな漸次に断除すれば、横截と名づけず。 もし弥陀の浄国に往生することを得れば、娑婆五道一時に頓(たちまち)に捨つ。 ゆゑに「横截五悪趣」と名づくるはその果を截(き)るなり。([[安楽集 (七祖)#P

--274|安楽集 P.274]]) と『大経』には横截五悪趣とあるから『大経』は「頓の中の頓」の法であるとされ、

天台眞言 皆雖名頓敎 斷惑故 猶是漸敎也。未斷惑 出過三界之長迷故 以此敎爲頓中頓也。(『浄土真宗聖典全書』六『無量寿経釈』p.280)
天台、真言みな頓教と名づくといへども、惑を断ずるが故になおこれ漸教なり。いまだ惑を断ぜずして、三界の長迷を出過するが故に、この教(無量寿経)を以って頓中の頓となすなり。

と、聖道門は頓教と称しているが、内実は漸次に迷いを断じてさとりを得る漸教である。それに比して『大無量寿経』の阿弥陀仏の第十八願欲生我国(よくしょう-がこく) 乃至十念(ないし-じゅうねん)若不生者(にゃくふ-しょうじゃ) 不取正覚(ふしゅ-しょうがく) (わが国に生ぜんと(おも)ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ)」に立脚する浄土門は、本願を信じ念仏を申さば、横に五悪趣を截(き)り、悪趣自然に閉ぢる仏陀のさとりの浄土の世界へ往生するのであった。
この意を法然聖人は、

聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる。

といわれたのであった。