「果遂のちかひに帰してこそ」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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::自力の心にて名号を称えたるをば、ついに果たし遂げむと誓いたまふなり。([[浄土和讃#no66|浄土和讃 P.568]] 左訓) | ::自力の心にて名号を称えたるをば、ついに果たし遂げむと誓いたまふなり。([[浄土和讃#no66|浄土和讃 P.568]] 左訓) |
2024年1月16日 (火) 01:49時点における最新版
かすいのちかひにきしてこそ (浄土和讃 P.568)
『浄土真宗聖典全書』二 p370。国宝本の「果遂のちかひに帰してこそ」の左訓に、
- ジリキノココロニテミヤウガウヲトナエタルオバツイニハタシトゲムトチカイタマフナリ
- 自力の心にて名号を称えたるをば、ついに果たし遂げむと誓いたまふなり。(浄土和讃 P.568 左訓)
とある。御開山の意では、
と自力念仏から第十八願の選択の願海に入られた願功を果遂とされるのであった。
また、
と、仮の浄土も大悲の顕現である報土中の化土とされている意から窺えば、まさに如来の本意(随自意)ではないのだが「弥陀の大悲深ければ」自力念仏を示す第二十願まで建てて、化土までは迎え取るというお心でもあろう。当然、これを聞いた上からは真門自力の称名を捨てて第十八願への本願力回向の救済に帰すべきであることはいうまでもない。