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「煩悩即菩提」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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と「無礙者 謂知生死即是涅槃(無礙とは生死すなはちこれ涅槃と知るなり)」 と、十方世界の諸仏を[[十方の無礙人]]とされておられた。
 
と「無礙者 謂知生死即是涅槃(無礙とは生死すなはちこれ涅槃と知るなり)」 と、十方世界の諸仏を[[十方の無礙人]]とされておられた。
  
 
法然聖人は『和語灯録』「往生大要抄」で、真言・達磨(禅宗)・天台・花厳等を挙げて論じ、
 
法然聖人は『和語灯録』「往生大要抄」で、真言・達磨(禅宗)・天台・花厳等を挙げて論じ、
:天台宗には、煩悩即菩提 生死即涅槃と観じて、観心にてほとけになるとならふ也。[[和語灯録#P--417]]
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:天台宗には、'''煩悩即菩提 生死即涅槃'''と観じて、観心にてほとけになるとならふ也。([[和語灯録#P--417]])
と、「煩悩即菩提 生死即涅槃」は天台宗の教えだとされていた。
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と、「煩悩即菩提 生死即涅槃」は天台宗の観心の教えだとされていた。
  
 
梯實圓和上は『法然教学の研究』「法然教学と本覚法門」中で、
 
梯實圓和上は『法然教学の研究』「法然教学と本覚法門」中で、

2024年2月5日 (月) 22:48時点における版

ぼんのう-そくぼだい

ぼんのう-そくぼだい

 煩悩がそのまま菩提であるという意。生死即涅槃に同じ。「高僧和讃」には、

本願円頓一乗は
 逆悪摂すと信知して
 煩悩・菩提体無二
 すみやかにとくさとらしむ (高僧 P.584)

とある。→生死即涅槃。(浄土真宗辞典)

『論註』には、

」とは無礙道なり。『経』(華厳経・意)にのたまはく、「十方の無礙人一道より生死を出づ」と。「一道」とは一無礙道なり。「無礙」とは、いはく、生死すなはちこれ涅槃と知るなり。かくのごとき等の入不二の法門は、無礙の相なり。(論註 P.155)

と「無礙者 謂知生死即是涅槃(無礙とは生死すなはちこれ涅槃と知るなり)」 と、十方世界の諸仏を十方の無礙人とされておられた。

法然聖人は『和語灯録』「往生大要抄」で、真言・達磨(禅宗)・天台・花厳等を挙げて論じ、

天台宗には、煩悩即菩提 生死即涅槃と観じて、観心にてほとけになるとならふ也。(和語灯録#P--417)

と、「煩悩即菩提 生死即涅槃」は天台宗の観心の教えだとされていた。

梯實圓和上は『法然教学の研究』「法然教学と本覚法門」中で、

生仏不二、煩悩即菩提を衆生に即して語るときは、凡夫の現実を無視した空論におちいるが、如来の悟りの構造をあらわす論理としては真理である。法然は煩悩の凡夫と一体となって救済したまう阿弥陀仏の同体平等の大悲の構造をあらわす論理としてこれを活用していかれたのである。

といわれておられた。

上記の「曇鸞讃」に、

無碍光の利益より
 威徳広大の信をえて
 かならず煩悩のこほりとけ
 すなはち菩提のみづとなる (高僧 P.585)
罪障功徳の体となる
 こほりとみづのごとくにて
 こほりおほきにみづおほし
 さはりおほきに徳おほし (高僧 P.585)

とあり、仏のさとりの智見からみれば煩悩菩提は、その体性は一つであるということ。 これを煩悩具足の衆生の側から論ずると、一元論の本覚思想に陥る。

不断煩悩得涅槃
入不二の法門

◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:煩悩即菩提

ぼんのうそくぼだい/煩悩即菩提

煩悩がそのままさとりの縁となること。原始仏教部派仏教では、煩悩菩提は対立的に捉えられたが、大乗仏教において煩悩菩提(さとり)も空であり、本来は不二で相即していると説かれるようになった。さとりの面から捉えれば煩悩真如の現れであり、それを離れてさとりはないということになる。大乗仏教の一思想表現として「生死即涅槃」と併称される。『大乗荘厳経論』六に「法性を離れて外に諸法あることなきにより、是の故に是の如く説く、煩悩即菩提なりと」(正蔵三一・六二二中)とある。


【参照項目】➡煩悩生死即涅槃


【執筆者:大屋正順】