「智慧」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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当時のシナ仏教徒はプラジュニャーを智と慧の二語の熟語にすることによって仏教独自の意味を表現しようとしたのであろう。漢訳経典はそのような意味において全く違う異文化であるインドの仏教思想の受容に苦労したのであった。<br> | 当時のシナ仏教徒はプラジュニャーを智と慧の二語の熟語にすることによって仏教独自の意味を表現しようとしたのであろう。漢訳経典はそのような意味において全く違う異文化であるインドの仏教思想の受容に苦労したのであった。<br> | ||
なお、曇鸞大師は智慧を、 | なお、曇鸞大師は智慧を、 | ||
− | : | + | :進むを知りて退くを守るを「智」といふ<ref>知進守退(進むを知りて退くを守る)。進んで衆生を済度することを知り、小乗の自利に退かないように身を守る。</ref>。空・無我を知るを「慧」といふ。 智によるがゆゑに自楽を求めず。慧によるがゆゑに、我心の自身に貪着することを遠離す。([[浄土論註_(七祖)#no106|論註p.145]]) |
と、智は衆生済度の方便として外へはたらき、慧は般若として内にはたらくものとされている。三界の衆生の虚妄の相を知れば、これを救済しようとする智から慈悲が起きる。慧は、モノ/コトは、本来は空・無我であるから我が心の描き出す自身に貪着するという概念に執着しないというのであろう。<br> | と、智は衆生済度の方便として外へはたらき、慧は般若として内にはたらくものとされている。三界の衆生の虚妄の相を知れば、これを救済しようとする智から慈悲が起きる。慧は、モノ/コトは、本来は空・無我であるから我が心の描き出す自身に貪着するという概念に執着しないというのであろう。<br> | ||
親鸞聖人は、国宝本『浄土和讃』の「智慧の光明はかりなし」の智慧の左訓に、 | 親鸞聖人は、国宝本『浄土和讃』の「智慧の光明はかりなし」の智慧の左訓に、 | ||
:智は、あれはあれ、これはこれと分別して思ひはからうによりて、思惟に名づく。慧はこの思ひの定まりて、ともかくもはたらかぬによりて、[[不動]]になづく、不動三昧なり。(原文は漢字もカタカナ) | :智は、あれはあれ、これはこれと分別して思ひはからうによりて、思惟に名づく。慧はこの思ひの定まりて、ともかくもはたらかぬによりて、[[不動]]になづく、不動三昧なり。(原文は漢字もカタカナ) | ||
とされておられる。この場合の慧は、阿弥陀如来の本願力に信順、随順している意を不動といわれたのであろう。なお「行巻」(p.151)では『十住毘婆沙論』「地相品」を引文され「定心は深く仏法に入りて心動ずべからず」とある。『十住毘婆沙論』「入初地品」には第八地を「第八不動地」([[トーク:十住毘婆沙論 (七祖)#入初地品第二|十住毘婆沙論]])とある。 | とされておられる。この場合の慧は、阿弥陀如来の本願力に信順、随順している意を不動といわれたのであろう。なお「行巻」(p.151)では『十住毘婆沙論』「地相品」を引文され「定心は深く仏法に入りて心動ずべからず」とある。『十住毘婆沙論』「入初地品」には第八地を「第八不動地」([[トーク:十住毘婆沙論 (七祖)#入初地品第二|十住毘婆沙論]])とある。 | ||
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2024年7月18日 (木) 14:22時点における版
ちえ
梵語プラジュニャー(prajñā)の漢訳。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
ちえ 智慧
智慧はプラジュニャー(prajñā)の漢訳語として翻訳されたが、本来はプラジュニャーは「慧」と漢訳され智と区別していた。智はジュニャーナ(梵語 jñāna)の意で物事を分別する知恵・知識を指していた。
当時のシナ仏教徒はプラジュニャーを智と慧の二語の熟語にすることによって仏教独自の意味を表現しようとしたのであろう。漢訳経典はそのような意味において全く違う異文化であるインドの仏教思想の受容に苦労したのであった。
なお、曇鸞大師は智慧を、
と、智は衆生済度の方便として外へはたらき、慧は般若として内にはたらくものとされている。三界の衆生の虚妄の相を知れば、これを救済しようとする智から慈悲が起きる。慧は、モノ/コトは、本来は空・無我であるから我が心の描き出す自身に貪着するという概念に執着しないというのであろう。
親鸞聖人は、国宝本『浄土和讃』の「智慧の光明はかりなし」の智慧の左訓に、
- 智は、あれはあれ、これはこれと分別して思ひはからうによりて、思惟に名づく。慧はこの思ひの定まりて、ともかくもはたらかぬによりて、不動になづく、不動三昧なり。(原文は漢字もカタカナ)
とされておられる。この場合の慧は、阿弥陀如来の本願力に信順、随順している意を不動といわれたのであろう。なお「行巻」(p.151)では『十住毘婆沙論』「地相品」を引文され「定心は深く仏法に入りて心動ずべからず」とある。『十住毘婆沙論』「入初地品」には第八地を「第八不動地」(十住毘婆沙論)とある。
- ↑ 知進守退(進むを知りて退くを守る)。進んで衆生を済度することを知り、小乗の自利に退かないように身を守る。
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:智慧
ちえ/智慧
ものごとを判断し、決定する心の働き。ⓈjñānaやⓈprajñāなどの訳語として用いられるが、一般的に前者を智、後者を慧と訳す。智(jñāna)と慧(prajñā)はほぼ同義であるが、アビダルマなどで厳密に区別される場合は、慧がより一般的な心の働きであり、智は慧に含まれるものである。慧とは『俱舎論』四に「慧は謂はく、法において能く簡択有り」(正蔵二九・一九上)と言われるように、法を弁別し判断する心の働きである。この働きは仏と凡夫を問わず、あらゆる衆生にあるが、凡夫のそれは汚れたもの(有漏)であり、仏のそれは清浄なるもの(無漏)である。仏道修行の目的はこのような有漏の智慧を無漏の智慧へと転換させることである。無漏の智慧は無漏慧や無漏智と呼ばれ、煩悩を断つために働く。智慧の理解は、仏教諸宗によって異なり、アビダルマでは智を有漏と無漏に大別し、これらをさらに一〇に分類する。唯識では無分別智や後得智、あるいは四智を説き、密教では五智を説く。浄土宗においては凡夫であることの自覚をもとに、智慧を極め生死を離れる聖道門を捨て、阿弥陀仏の本願を信じ称名念仏によって極楽往生を目指す浄土門に帰依することが肝要である。
【資料】『俱舎論』智品、『徹選択集』上
【参照項目】➡一切智、三慧、三学、四智、灰身滅智、五智、根本智・後得智、般若
【執筆者:石田一裕】
- オンライン版 仏教辞典より転送
智慧
仏教では、「智慧」を「智」と「[[[え|慧]]」に分けて考えることがあり、その場合、平等のなかに差別を見るのが「智」(jñāna)、一切の事物の平等なることを証するのが「慧」(prajñā)とされる。
ごく初期の智慧
ゴータマ・ブッダのいう「智慧」とは、徹底的に分析的な知識(如実知見=徹底的な観察のみに基づく真蟄な考察によって得られる知見)のことである。
だから、「分析的な知識(分別知)ではなく総合的な直観である」(平川彰博士などがことあるごとに強調する)という考え方、また、「智慧は無分別知である」とする大乗仏教の経典でひんぱんに見られる考え方、また、雑多な人々が雑多に主張するような、智慧を何かしら超常的な洞察力などとする神秘主義的な考え方とは、根本的に異なったものである。
その証拠として、『スッタニパータ』のサビヤという名の出家遊行者への答えがあげられる。
- 514 師は答えた、『サビヤよ、みずから道を修して完全な安らぎに達し、疑いを超え、生存と衰滅とを捨て、(清らかな行いに)安立して、この世の再生を滅ぼしつくした人、――かれが修行者である。
- 515 あらゆることがらに関して平静であり、こころを落ち着け、全世界のうちで何ものをも害うことなく、流れを渡り、濁りなく、欲情の昂まりを増すことのない道の人、――かれは柔和な人である。
- 516 全世界のうちで内的にも外的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭い離れ、死時の到来を願って修養している人、――かれは自己を制した人である。
- 517 あらゆる宇宙時期と輪廻と生ある者の生と死とを、二つながらに思惟弁別して、塵を離れ、汚点なく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、――かれを目覚めた人(仏)という。
ここで「二つながらに思惟弁別して」というのは、徹底的な分析的な知見であることを意味していると言える。
一般的智慧
この語に対応するサンスクリット原語は必ずしも特定できないが、原語と実際の訳語の用いられ方を考慮すると、代表的なものとしては、次の3通りの用例が見出される。
第1には、原語prajñā(प्रज्ञा skt.)、paññā(पज्जा,pali)の訳語として、智慧一語で、音写語の般若と同等の意味合いで用いられる場合。
第2には、智が原語jñānaの訳語、慧が原語prajñāの訳語として、智と慧という二つを示す用語として用いられる場合。
第3には、いちいち対応する原語が意識されずに、漢訳語として独自の意味をもつ場合。
智慧を表わす語としては、上記の二つ(智と慧)のほか, vidyā(明)、medha(慧)、bhūrī(広慧)、darśana(見、 jñānadarśana 知見)、dṛṣṭi(見、samyag-dṛṣṭi 正見)、vipaśyanā(観)、anupaśyanā(随観)、parijñā(遍知)、abhijñā(証知)、ājñā(了知)、samprajāna(正知)、mimāṃsā(観、観察)、parīkṣā(観)、pratyavekṣaṇa(観)、dharmavicaya(択法)、pratisaṃvid(無碍解)、mati(慧)、dhī(慧)などがある。
このうち, jñāna(智)とprajñā(慧)は阿含経典では区別されない場合が多いが、アビダルマでは智は仏智(知識内容)、慧は一般的には基本的な心作用の一つとして道理を弁別(簡択)するはたらきを指すものとして区別される。すなわち、禅定などの修行によって獲得される無漏の慧(三学の一としての慧学)のほかに、凡夫の有漏の慧もそこに含める。他方、智と対立し、価値否定的な機能としては識(vijñāna)があげられる(識に依らず、智に依れ、四依の一)、しかし知識論のうえでは, jñānaもvijñānaも同義語として扱われる。
照見名レ智。解了称レ慧。此二各別。知2世諦1者名レ之為レ智。照2第一義1者説以為レ慧。通則義齊。 〔大乗義章9〕
梵云2般若1。此名為レ慧。当レ知第六度。梵云2若那1。此名為レ智。当レ知第十度。 〔瑜伽論記9〕
般若
仏教の無常の道理を洞察する強靭な認識の力を指す。この用語としては、仏教の代表的実践体系である六波羅蜜の最後に位置づけられ、それ以前の五波羅蜜を基礎づける根拠として最も重要なものとみなされている。
智と慧
智と慧のうち、後者の慧が「般若」の意味を担うが、これに対する智は、更に慧よりも境界の高いものと教義的には規定されている。
この場合の智は、仏教の実践体系が六波羅蜜以外にも展開されて十地として整備されたときに、第六地では慧を、第十地では智を得るというように順列化されたために、慧よりも一段高いものと見なされたにすぎず、基本的には慧の働きを十地の展開に合わせて拡大したものと考えることができる。
部派仏教では、十地の展開とは無関係に、智が詳細に分類され、特に説一切有部では、十智や有漏智・無漏智の分類に基づく、種々の概念規定が試みられた。
大乗仏教では、特に唯識で説かれる、通常の認識活動を転換した智としての四智、智の段階的な進展を示す加行智・無分別智・後得智という三智が代表的なものである。
智慧
以上に示した種々な意味合いが、智慧という一語に込められて広い意味で用いられている。この場合には、多く、世俗的なさかしらな識別に対して、世事を離れた、あるいは世事を見通す叡智を指して用いられる。