「信因称報」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | 覚如上人は、『往生礼讃』の「[[上尽一形下至一念]](<kana>上(かみ)</kana><kana>[[一形]](いちぎょう)</kana>を尽し、<kana>下(しも)</kana>一念に至るまで」) | + | 覚如上人は、『往生礼讃』の「[[上尽一形下至一念]](<kana>上(かみ)</kana><kana>[[一形]](いちぎょう)</kana>を尽し、<kana>下(しも)</kana>一念に至るまで」)」を釈し一念の信心と多念の報恩の称名をもって、[[信心正因]]・[[称名報恩]]説を確立された。これは『口伝鈔』第二十一条に、 |
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− | : | + | :しかれども、「下至一念」は本願をたもつ往生決定の[[時剋]]なり、「[[上尽一形…|上尽一形]]」は往生即得のうへの{{ULR|仏恩報謝のつとめなり。}} そのこころ、経釈顕然なるを、一念も多念もともに往生のための[[正因]]たるやうにこころえみだす条、すこぶる経釈に違せるものか。・・・・・・ |
:一念をもつて往生治定の[[時剋]]と定めて、いのちのぶれば、自然と多念におよぶ道理を明かせり。されば平生のとき、一念往生治定のうへの仏恩報謝の多念の称名とならふところ、文証・道理顕然なり。([[口伝鈔#P--910|口伝鈔 P.910]]) | :一念をもつて往生治定の[[時剋]]と定めて、いのちのぶれば、自然と多念におよぶ道理を明かせり。されば平生のとき、一念往生治定のうへの仏恩報謝の多念の称名とならふところ、文証・道理顕然なり。([[口伝鈔#P--910|口伝鈔 P.910]]) | ||
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+ | : ここをもつて御釈[浄土文類(教行信証)]にのたまはく、[[憶念弥陀仏本願…|憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩]]」(正信偈)とみえたり。「ただよく如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ひたてまつるべし」と。平生に善知識のをしへをうけて信心開発するきざみ、正定聚の位に住すとたのみなん機は、ふたたび臨終の時分に[[往益]]をまつべきにあらず。そののちの称名は、仏恩報謝の他力催促の大行たるべき条、文にありて[[顕然]]なり。([[口伝鈔#P--903|口伝鈔 P.903]]) | ||
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+ | で[[憶念弥陀仏本願…|憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩]]」を挙げておられた。<br /> | ||
+ | 後年、信心正因 称名報恩の主張の根拠として盛んに出される文である。しかして覚如上人は自らの主張の根拠として御開山の[[鏡の御影]]の讃嘆銘を書き換えたのは行き過ぎである。<br /> | ||
+ | 確かに信心正因(横超の菩提心)は仏に成る正因だが、称名(なんまんだぶ)は報恩といふ人間の思ひの枠を超えた「[[上尽一形…|上尽一形下至一念]]」(<kana>上(かみ)</kana><kana>[[一形]](いちぎょう)</kana>を尽し、<kana>下(しも)</kana>一念に至る)([[往生礼讃 (七祖)#光号摂化|往生礼讃 P.659]])、の仏徳讃嘆の[[大行]]である。 | ||
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:→[[称名報恩]] | :→[[称名報恩]] | ||
+ | :→[[鏡の御影]] | ||
:→[[覚如教学の特色]] | :→[[覚如教学の特色]] | ||
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2024年8月12日 (月) 17:16時点における版
しんいん-しょうほう 信因称報
信心正因・称名報恩の略。往生成仏のまさしき因は信心であり、獲信後は仏恩報謝の思いから称名すること。真宗教義の中核として、覚如により確立された。→口伝鈔。(浄土真宗辞典)
覚如上人は、『往生礼讃』の「上尽一形下至一念(
とあることから判る。
そして、信心正因 称名報恩の根拠として、正信念仏偈の、
- ここをもつて御釈[浄土文類(教行信証)]にのたまはく、憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」(正信偈)とみえたり。「ただよく如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ひたてまつるべし」と。平生に善知識のをしへをうけて信心開発するきざみ、正定聚の位に住すとたのみなん機は、ふたたび臨終の時分に往益をまつべきにあらず。そののちの称名は、仏恩報謝の他力催促の大行たるべき条、文にありて顕然なり。(口伝鈔 P.903)
で憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」を挙げておられた。
後年、信心正因 称名報恩の主張の根拠として盛んに出される文である。しかして覚如上人は自らの主張の根拠として御開山の鏡の御影の讃嘆銘を書き換えたのは行き過ぎである。
確かに信心正因(横超の菩提心)は仏に成る正因だが、称名(なんまんだぶ)は報恩といふ人間の思ひの枠を超えた「上尽一形下至一念」(