「別願」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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諸仏、諸菩薩には総願である「[[四弘誓願]]」の他に、それぞれの[[別願]]があるのだが、浄土真宗では、別願とは阿弥陀仏の四十八願を指し、特に[[第十八願]]の[[念仏往生の願]]を、'''別願中の別願'''とする。 | 諸仏、諸菩薩には総願である「[[四弘誓願]]」の他に、それぞれの[[別願]]があるのだが、浄土真宗では、別願とは阿弥陀仏の四十八願を指し、特に[[第十八願]]の[[念仏往生の願]]を、'''別願中の別願'''とする。 | ||
: しかれば、それ楞厳の和尚([[源信]])の解義を案ずるに、[[念仏証拠門のなかに…|念仏証拠門(往生要集・下)のなかに]]、[[第十八願|第十八の願]]は'''別願のなかの別願なり'''と顕開したまへり。『観経』の[[定散]]の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが[[能]]を思量せよとなり、知るべし。([[化巻本#P--381|化巻 P.381]]) | : しかれば、それ楞厳の和尚([[源信]])の解義を案ずるに、[[念仏証拠門のなかに…|念仏証拠門(往生要集・下)のなかに]]、[[第十八願|第十八の願]]は'''別願のなかの別願なり'''と顕開したまへり。『観経』の[[定散]]の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが[[能]]を思量せよとなり、知るべし。([[化巻本#P--381|化巻 P.381]]) | ||
− | このご自釈の「別願のなかの別願」のはじめの別願は阿弥陀仏の四十八願を指し、後の別願中の別願は[[第十八願]] | + | このご自釈の「別願のなかの別願」のはじめの別願は阿弥陀仏の四十八願を指し、後の別願中の別願は[[第十八願]]を指す。この「第十八の願は別願のなかの別願なり」とされることによって、第十八願は[[生因三願]]の中の別願であると御開山はいわれるのであった。 |
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:→[[トーク:念仏証拠門のなかに…]] | :→[[トーク:念仏証拠門のなかに…]] | ||
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2024年8月18日 (日) 00:15時点における版
べつがん
他力不思議をもって
個人的な特別の願い。 (要集 P.868)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
諸仏、諸菩薩には総願である「四弘誓願」の他に、それぞれの別願があるのだが、浄土真宗では、別願とは阿弥陀仏の四十八願を指し、特に第十八願の念仏往生の願を、別願中の別願とする。
- しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。(化巻 P.381)
このご自釈の「別願のなかの別願」のはじめの別願は阿弥陀仏の四十八願を指し、後の別願中の別願は第十八願を指す。この「第十八の願は別願のなかの別願なり」とされることによって、第十八願は生因三願の中の別願であると御開山はいわれるのであった。