「龍樹」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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仏教を学び始めると最初や最後にはハマるのが龍樹菩薩の空の論理である。ほとんどの人はこの魅力的な空の論理の罠に堕ちて、脳内思考で空観を論じるだけで空性の実践面ではゼロである。こういふ輩はスリッパで脳天を張り倒して
- 私の 煩悩と 仏のさとりは 本来一つゆえ
- 「そのまま 救う」が 弥陀のよび声
と空を説けば許してもらえるだろう。なんせ「空」なのだからわたしに責任は無い。(笑
ともあれ、一切の仏教の全体を把握を試み新しい「五教十宗」の教判をされたのは、華厳宗第三祖の賢首大師法蔵(644年 - 712年)であった。
- ① 我法倶有宗
- ② 法有我無宗
- ③ 法無去来宗
- ④ 現通仮実宗
- ⑤ 俗妄真実宗
- ⑥ 諸法但名宗
- ⑦ 大乗始教───切皆空宗
- ⑧ 終教─────真徳不空宗
- ⑨ 頓教─────相想倶絶宗
- ⑩ 円教─────円明具徳宗
ところで、御開山が龍樹菩薩の空の論理は使われておられない。それは龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の易行品の易行を引文されるのが主であることからも判る。御開山は法然聖人の示して下さった穢土と浄土の二元論の上で仏教を解釈されたからである。
龍樹菩薩関係の引文。
行巻
- ①『論の註』(上 四七)にいはく、「つつしんで龍樹菩薩の『十住毘婆沙』を案ずるにいはく (行巻 P.154)
行巻
- ② 帰命はこれ礼拝なりとは。龍樹菩薩、阿弥陀如来の『讃』(易行品)を造れるなかに、(行巻 P.156)
行巻
- ③ ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」(易行品 一六)といへり。(行巻 P.187)
証巻
- ④ 龍樹菩薩・婆藪槃頭菩薩(天親)の輩、かしこに生ぜんと願ずるは、まさにこのためなるべしならくのみと。(証巻 P.315)
真巻
- ⑤ 問うていはく、法蔵菩薩の本願(第十四願)、および龍樹菩薩の所讃(易行品)を尋ぬるに、みなかの国に声聞衆多なるをもつて奇とするに似たり。 (真巻 P.359)
真巻
- ⑥ 本師龍樹摩訶薩、形を像始に誕じて、頽綱(頽の字、崩なり、破なり、落なり、纏るなり)を理る。 ([[真巻#363|真巻 P.363])
文類聚鈔
- ⑦ 龍樹菩薩、(『十住毘婆沙論』(易行品 六)にいはく、「もし人、疾く不退転地を得んと欲はば、恭敬の心をもつて、執持して名号を称すべし。(浄文 P.479)
文類聚鈔
- ⑧ 龍樹菩薩、世に興出して、ことごとくよく有無の見を摧破せん。(浄文 P.486)
愚禿鈔
- ⑨ 龍樹大士『十住毘婆沙論』(易行品 一六)にいはく、「即時入必定」となり。(愚禿下 P.538)
尊号真像銘文
- ⑩ 「成等覚」といふは正定聚の位なり。この位を龍樹菩薩は「即時入必定」(易行品)とのたまへり (尊号 P.671)
尊号真像銘文
- ⑪ 『十住毘婆沙論』曰「人能念是仏 無量力功徳 即時入必定 是故我常念 若人願作仏 心念阿弥陀 応時為現身 是故我帰命」(易行品 一六)(易行品 一七)[文](尊号 P.650)
尊号真像銘文
- ⑫ 「是故我帰命」といふは、龍樹菩薩のつねに阿弥陀如来を帰命したてまつるとなり。(尊号 P.650)
弥陀如来名号徳
- ⑬ 龍樹菩薩は「我説彼尊功徳事 衆善無辺如海水」(十二礼)とをしへたまへり。(名号 P.730)
と、空の論理は使われておられない。