御伝鈔
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
本書は、『
もと宗祖親鸞聖人の曾孫にあたる第三代
本書の初稿本であろうとされるものは、親鸞聖人三十三回忌の翌年、
現行のものは上・下二巻、計十五巻からなっている。上巻八段にはそれぞれ、(一)
目 次
御伝鈔
御伝鈔 上
本願寺聖人親鸞伝絵 上
出家学道
【1】 それ聖人(親鸞)の俗姓は藤原氏、天児屋根尊、二十一世の苗裔、大織冠[鎌子内大臣]の玄孫、近衛大将右大臣[贈左大臣]従一位内麿公[後長岡大臣と号し、あるいは閑院大臣と号す。贈正一位太政大臣房前公孫、大納言式部卿真楯息なり]六代の後胤、弼宰相有国卿五代の孫、皇太后宮大進有範の子なり。
しかあれば朝廷に仕へて霜雪をも戴き、射山にわしりて栄華をもひらくべかりし人なれども、興法の因うちにきざし、利生の縁ほかに催ししによりて、九歳の春のころ、阿伯従三位範綱卿[ときに従四位上前若狭守、後白河上皇の近臣なり、上人(親鸞)の養父]前大僧正[慈円慈鎮和尚これなり、法性寺殿御息、月輪殿長兄]の貴坊へあひ具したてまつりて、鬢髪を剃除したまひき。範宴少納言公と号す。
それよりこのかた、しばしば南岳・天台の玄風を訪ひて、ひろく三観仏乗の理を達し、とこしなへに楞厳横川の余流を湛へて、ふかく四教円融の義にあきらかなり。
吉水入室
【2】 第二段
建仁第一の暦春のころ[上人(親鸞)二十九歳]隠遁の志にひかれて、源空聖人の吉水の禅房にたづねまゐりたまひき。これすなはち世くだり、人つたなくして、難行の小路迷ひやすきによりて、易行の大道におもむかんとなり。真宗紹隆の大祖聖人(源空)、ことに宗の淵源を尽し、教の理致をきはめて、これをのべたまふに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を決定しましましけり。
六角夢想
【3】 第三段
建仁三年[癸亥]四月五日の夜寅時、上人(親鸞)夢想の告げましましき。かの『記』にいはく、六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖僧の形を示現して、白衲の袈裟を着服せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信(親鸞)に告命してのたまはく、「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」といへり。救世菩薩、善信にのたまはく、「これはこれわが誓願なり。善信この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむべし」と云々。
そのとき善信夢のうちにありながら、御堂の正面にして東方をみれば、峨々たる岳山あり。その高山に数千万億の有情群集せりとみゆ。そのとき告命のごとく、この文のこころを、かの山にあつまれる有情に対して説ききかしめをはるとおぼえて、夢さめをはりぬと云々。
つらつらこの記録を披きてかの夢想を案ずるに、ひとへに真宗繁昌の奇瑞、念仏弘興の表示なり。しかあれば聖人(親鸞)、後の時仰せられてのたまはく、「仏教むかし西天(印度)よりおこりて、経論いま東土(日本)に伝はる。これひとへに上宮太子(聖徳太子)の広徳、山よりもたかく海よりもふかし。わが朝欽明天皇の御宇に、これをわたされしによりて、すなはち浄土の正依経論等このときに来至す。儲君(聖徳太子)もし厚恩を施したまはずは、凡愚いかでか弘誓にあふことを得ん。救世菩薩はすなはち儲君の本地なれば、垂迹興法の願をあらはさんがために本地の尊容をしめすところなり。
そもそもまた大師聖人[源空]もし流刑に処せられたまはずは、われまた配所におもむかんや。もしわれ配所におもむかずんば、なにによりてか辺鄙の群類を化せん。これなほ師教の恩致なり。大師聖人すなはち勢至の化身、太子また観音の垂迹なり。このゆゑにわれ二菩薩の引導に順じて、如来の本願をひろむるにあり。真宗これによりて興じ、念仏これによりてさかんなり。これしかしながら聖者の教誨によりて、さらに愚昧の今案をかまへず、かの二大士の重願、ただ一仏名を専念するにたれり。今の行者、錯りて脇士に事ふることなかれ、ただちに本仏(阿弥陀仏)を仰ぐべし」と云々。かるがゆゑに上人親鸞、傍らに皇太子(聖徳太子)を崇めたまふ。けだしこれ仏法弘通のおほいなる恩を謝せんがためなり。
蓮位夢想
【4】 第四段
建長八年[丙辰]二月九日の夜寅の時、釈蓮位夢想の告げにいはく、聖徳太子、親鸞上人を礼したてまつりてのたまはく、「敬礼大慈阿弥陀仏 為妙教流通来生者 五濁悪時悪世界中 決定即得無上覚也」。しかれば祖師上人(親鸞)は、弥陀如来の化身にてましますといふことあきらかなり。
選択付属
【5】 第五段
黒谷の先徳[源空]在世のむかし、矜哀のあまり、あるときは恩許を蒙りて製作を見写し、あるときは真筆を下して名字を書きたまはす。すなはち『顕浄土方便化身土文類』の六にのたまはく、[親鸞上人撰述]「しかるに愚禿釈鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰し、元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』(選択集)を書く。おなじき年初夏中旬第四日、『選択本願念仏集』の内題の字、ならびに〈南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本〉と、〈釈綽空(親鸞)〉と、空(源空)の真筆をもつてこれを書かしめたまひ、おなじき日、空の真影申し預かり、図画したてまつる。
おなじき二年、閏七月下旬第九日、真影の銘は真筆をもつて、〈南無阿弥陀仏〉と〈若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生〉の真文とを書かしめたまひ、また夢の告げによりて綽空の字を改めて、おなじき日、御筆をもつて名の字を書かしめたまひをはりぬ。本師聖人(源空)、今年七旬三の御歳なり。『選択本願念仏集』は、禅定博陸[月輪殿兼実、法名円照]の教命によりて選集せしめたまふところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭りやすし、まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。年を渉り日を渉り、その教誨を蒙るの人、千万なりといへども、親といひ疎といひ、この見写を獲るの徒、はなはだもつてかたし。しかるにすでに製作を書写し、真影を図画す。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。よつて悲喜の涙を抑へて、由来の縁を註す」と云々。
信行両座
【6】 第六段
おほよそ源空聖人在生のいにしへ、他力往生の旨をひろめたまひしに、世あまねくこれに挙り、人ことごとくこれに帰しき。紫禁・青宮の政を重くする砌にも、まづ黄金樹林の萼にこころをかけ、三槐・九棘の道をただしくする家にも、ただちに四十八願の月をもてあそぶ。しかのみならず戎狄の輩、黎民の類、これを仰ぎ、これを貴びずといふことなし。貴賤、轅をめぐらし、門前、市をなす。常随昵近の緇徒その数あり、すべて三百八十余人と云々。しかりといへども、親りその化をうけ、ねんごろにその誨をまもる族、はなはだまれなり。わづかに五六輩にだにもたらず。
善信聖人(親鸞)、あるとき申したまはく、「予、難行道を閣きて易行道にうつり、聖道門を遁れて浄土門に入りしよりこのかた、芳命をかうぶるにあらずよりは、あに出離解脱の良因を蓄へんや。よろこびのなかのよろこび、なにごとかこれにしかん。しかるに同室の好を結びて、ともに一師の誨を仰ぐ輩、これおほしといへども、真実に報土得生の信心を成じたらんこと、自他おなじくしりがたし。かるがゆゑに、かつは当来の親友たるほどをもしり、かつは浮生の思出ともしはんべらんがために、御弟子参集の砌にして、出言つかうまつりて、面々の意趣をも試みんとおもふ所望あり」と云々。
大師聖人(源空)のたまはく、「この条もつともしかるべし、すなはち明日人々来臨のとき仰せられ出すべし」と。しかるに翌日集会のところに、上人[親鸞]のたまはく、「今日は信不退・行不退の御座を両方にわかたるべきなり、いづれの座につきたまふべしとも、おのおの示したまへ」と。
そのとき三百余人の門侶みなその意を得ざる気あり。ときに法印大和尚位聖覚、ならびに釈信空上人法蓮、「信不退の御座に着くべし」と云々。つぎに沙弥法力[熊谷直実入道]遅参して申していはく、「善信御房の御執筆なにごとぞや」と。善信上人のたまはく、「信不退・行不退の座をわけらるるなり」と。法力房申していはく、「しからば法力もるべからず、信不退の座にまゐるべし」と云々。
よつてこれを書き載せたまふ。ここに数百人の門徒群居すといへども、さらに一言をのぶる人なし。これおそらくは自力の迷心に拘はりて、金剛の真信に昏きがいたすところか。人みな無音のあひだ、執筆上人[親鸞]自名を載せたまふ。ややしばらくありて大師聖人仰せられてのたまはく、「源空も信不退の座につらなりはんべるべし」と。そのとき門葉、あるいは屈敬の気をあらはし、あるいは鬱悔の色をふくめり。
信心諍論
【7】 第七段
上人[親鸞]のたまはく、いにしへわが大師聖人[源空]の御前に、正信房・勢観房・念仏房以下のひとびとおほかりしとき、はかりなき諍論をしはんべることありき。そのゆゑは、「聖人の御信心と善信(親鸞)が信心と、いささかもかはるところあるべからず、ただひとつなり」と申したりしに、このひとびととがめていはく、「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるることいはれなし、いかでかひとしかるべき」と。
善信申していはく、「などかひとしと申さざるべきや。そのゆゑは深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、まことにおほけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まつたくわたくしなし。しかれば聖人の御信心も他力よりたまはらせたまふ、善信が信心も他力なり。かるがゆゑにひとしくしてかはるところなしと申すなり」と申しはんべりしところに、大師聖人まさしく仰せられてのたまはく、「信心のかはると申すは、自力の信にとりてのことなり。すなはち智慧各別なるゆゑに信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も、さらにかはるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず、信心のかはりあうておはしまさんひとびとは、わがまゐらん浄土へはよもまゐりたまはじ。よくよくこころえらるべきことなり」と云々。ここに面面舌をまき、口を閉ぢてやみにけり。
入西鑑察
【8】 第八段
御弟子入西房、上人[親鸞]の真影を写したてまつらんとおもふこころざしありて、日ごろをふるところに、上人そのこころざしあることをかがみて仰せられてのたまはく、「定禅法橋[七条辺に居住]に写さしむべし」と。入西房、鑑察の旨を随喜して、すなはちかの法橋を召請す。定禅左右なくまゐりぬ。すなはち尊顔に向かひたてまつりて申していはく、「去夜、奇特の霊夢をなん感ずるところなり。その夢のうちに拝したてまつるところの聖僧の面像、いま向かひたてまつる容貌に、すこしもたがふところなし」といひて、たちまちに随喜感歎の色ふかくして、みづからその夢を語る。貴僧二人来入す。一人の僧のたまはく、「この化僧の真影を写さしめんとおもふこころざしあり。ねがはくは禅下筆をくだすべし」と。定禅問ひていはく、「かの化僧たれびとぞや」。件の僧のいはく、「善光寺の本願の御房これなり」と。ここに定禅掌を合はせ跪きて、夢のうちにおもふやう、さては生身の弥陀如来にこそと、身の毛よだちて恭敬尊重をいたす。また、「御ぐしばかりを写されんに足りぬべし」と云々。かくのごとく問答往復して夢さめをはりぬ。しかるにいまこの貴坊にまゐりてみたてまつる尊容、夢のうちの聖僧にすこしもたがはずとて、随喜のあまり涙を流す。しかれば「夢にまかすべし」とて、いまも御ぐしばかりを写したてまつりけり。夢想は仁治三年九月二十日の夜なり。つらつらこの奇瑞をおもふに、聖人(親鸞)、弥陀如来の来現といふこと炳焉なり。しかればすなはち、弘通したまふ教行、おそらくは弥陀の直説といひつべし。あきらかに無漏の慧灯をかかげて、とほく濁世の迷闇を晴らし、あまねく甘露の法雨をそそぎて、はるかに枯渇の凡惑を潤さんがためなりと。仰ぐべし、信ずべし。
御伝鈔 下
本願寺聖人親鸞伝絵 下
師資遷謫
【9】 第一段
浄土宗興行によりて、聖道門廃退す。これ空師(源空)の所為なりとて、たちまちに罪科せらるべきよし、南北の碩才憤りまうしけり。『顕化身土文類』の六にいはく、「ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証ひさしく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。ここをもつて興福寺の学徒、太上天皇[諱尊成、後鳥羽院と号す]今上[諱為仁、土御門院と号す]聖暦、承元丁卯歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下法に背き義に違し、忿りをなし怨を結ぶ。これによりて真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、みだりがはしく死罪に坐す。あるいは僧の儀を改め、姓名を賜ひて遠流に処す。予はその一つなり。しかればすでに僧にあらず、俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たり」と云々。空聖人罪名藤井元彦、配所土佐国 [幡多] 鸞聖人(親鸞)罪名藤井善信、配所越後国 [国府] このほか門徒、死罪流罪みなこれを略す。皇帝[諱守成、佐渡院と号す]聖代、建暦辛未歳、子月中旬第七日、岡崎中納言範光卿をもつて勅免。このとき聖人右のごとく禿の字を書きて奏聞したまふに、陛下叡感をくだし、侍臣おほきに褒美す。勅免ありといへども、かしこに化を施さんがために、なほしばらく在国したまひけり。
稲田興法
【10】 第二段
聖人(親鸞)越後国より常陸国に越えて、笠間郡稲田郷といふところに隠居したまふ。幽棲を占むといへども道俗あとをたづね、蓬戸を閉づといへども貴賤ちまたにあふる。仏法弘通の本懐ここに成就し、衆生利益の宿念たちまちに満足す。このとき聖人仰せられてのたまはく、「救世菩薩の告命を受けしいにしへの夢、すでにいま符合せり」と。
弁円済度
【11】 第三段
聖人(親鸞)常陸国にして専修念仏の義をひろめたまふに、おほよそ疑謗の輩は少なく、信順の族はおほし。しかるに一人の僧[山臥と云々]ありて、ややもすれば仏法に怨をなしつつ、結句害心をさしはさみて、聖人をよりよりうかがひたてまつる。聖人板敷山といふ深山をつねに往反したまひけるに、かの山にして度々あひまつといへども、さらにその節をとげず。つらつらことの参差を案ずるに、すこぶる奇特のおもひあり。よつて聖人に謁せんとおもふこころつきて、禅室にゆきて尋ねまうすに、上人左右なく出であひたまひけり。すなはち尊顔にむかひたてまつるに、害心たちまちに消滅して、あまつさへ後悔の涙禁じがたし。ややしばらくありて、ありのままに日ごろの宿鬱を述すといへども、聖人またおどろける色なし。たちどころに弓箭をきり、刀杖をすて、頭巾をとり、柿の衣をあらためて、仏教に帰しつつ、つひに素懐をとげき。不思議なりしことなり。すなはち明法房これなり。上人(親鸞)これをつけたまひき。
箱根霊告
【12】 第四段
聖人(親鸞)東関の堺を出でて、華城の路におもむきましましけり。ある日晩陰におよんで箱根の嶮阻にかかりつつ、はるかに行客の蹤を送りて、やうやく人屋の枢にちかづくに、夜もすでに暁更におよんで、月もはや孤嶺にかたぶきぬ。ときに聖人歩み寄りつつ案内したまふに、まことに齢傾きたる翁のうるはしく装束したるが、いとこととなく出であひたてまつりていふやう、「社廟ちかき所のならひ、巫どもの終夜あそびしはんべるに、翁もまじはりつるが、いまなんいささか仮寝はんべるとおもふほどに、夢にもあらず、うつつにもあらで、権現仰せられていはく、〈ただいまわれ尊敬をいたすべき客人、この路を過ぎたまふべきことあり、かならず慇懃の忠節を抽んで、ことに丁寧の饗応をまうくべし〉と云々。示現いまだ覚めをはらざるに、貴僧忽爾として影向したまへり。なんぞただ人にましまさん。神勅これ炳焉なり、感応もつとも恭敬すべし」といひて、尊重屈請したてまつりて、さまざまに飯食を粧ひ、いろいろに珍味を調へけり。
熊野霊告
【13】 第五段
聖人(親鸞)故郷に帰りて往事をおもふに、年々歳々夢のごとし、幻のごとし。長安・洛陽の棲も跡をとどむるに懶しとて、扶風馮翊ところどころに移住したまひき。五条西洞院わたり、これ一つの勝地なりとて、しばらく居を占めたまふ。
このごろ、いにしへ口決を伝へ、面受をとげし門徒等、おのおの好を慕ひ、路を尋ねて参集したまひけり。そのころ常陸国那荷西郡大部郷に、平太郎なにがしといふ庶民あり。聖人の訓を信じて、もつぱらふたごころなかりき。しかるにあるとき、件の平太郎、所務に駈られて熊野に詣すべしとて、ことのよしを尋ねまうさんがために、聖人へまゐりたるに、仰せられてのたまはく、「それ聖教万差なり、いづれも機に相応すれば巨益あり。ただし末法の今の時、聖道門の修行においては成ずべからず。すなはち〈我末法時中億々衆生 起行修道未有一人得者〉(安楽集・上)といひ、〈唯有浄土一門可通入路〉(同・上)と云々。これみな経・釈の明文、如来の金言なり。しかるにいま唯有浄土の真説について、かたじけなくかの三国の祖師、おのおのこの一宗を興行す。このゆゑに愚禿すすむるところさらに私なし。しかるに一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり。すなはち三経に隠顕ありといへども、文といひ義といひ、ともにもつてあきらかなるをや。『大経』の三輩にも一向とすすめて、流通にはこれを弥勒に付属し、『観経』の九品にもしばらく三心と説きて、これまた阿難に付属す、『小経』の一心つひに諸仏これを証誠す。これによりて論主(天親)一心と判じ、和尚(善導)一向と釈す。
しかればすなはち、いづれの文によるとも一向専念の義を立すべからざるぞや。証誠殿の本地すなはちいまの教主(阿弥陀仏)なり。かるがゆゑに、とてもかくても衆生に結縁の志ふかきによりて、和光の垂迹を留めたまふ。垂迹を留むる本意、ただ結縁の群類をして願海に引入せんとなり。しかあれば本地の誓願を信じて一向に念仏をこととせん輩、公務にもしたがひ、領主にも駈仕して、その霊地をふみ、その社廟に詣せんこと、さらに自心の発起するところにあらず。しかれば垂迹において内懐虚仮の身たりながら、あながちに賢善精進の威儀を標すべからず。ただ本地の誓約にまかすべし、あなかしこ、あなかしこ。神威をかろしむるにあらず、ゆめゆめ冥眦をめぐらしたまふべからず」と云々。
これによりて平太郎熊野に参詣す。道の作法とりわき整ふる儀なし。ただ常没の凡情にしたがひて、さらに不浄をも刷ふことなし。行住坐臥に本願を仰ぎ、造次顛沛に師教をまもるに、はたして無為に参着の夜、件の男夢に告げていはく、証誠殿の扉を排きて、衣冠ただしき俗人仰せられていはく、「なんぢ、なんぞわれを忽緒して汚穢不浄にして参詣するや」と。そのときかの俗人に対座して、聖人忽爾としてまみえたまふ。その詞にのたまはく、「かれは善信(親鸞)が訓によりて念仏するものなり」と云々。ここに俗人笏をただしくして、ことに敬屈の礼を著しつつ、かさねて述ぶるところなしとみるほどに、夢さめをはりぬ。おほよそ奇異のおもひをなすこと、いふべからず。下向ののち、貴坊にまゐりて、くはしくこの旨を申すに、聖人「そのことなり」とのたまふ。これまた不思議のことなりかし。
洛陽遷化
【14】 第六段
聖人(親鸞)弘長二歳[壬戌]仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします。それよりこのかた、口に世事をまじへず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらはさず、もつぱら称名たゆることなし。しかうしておなじき第八日[午時]頭北面西右脇に臥したまひて、つひに念仏の息たえをはりぬ。ときに頽齢九旬にみちたまふ。禅房は長安馮翊の辺[押小路の南、万里小路より東]なれば、はるかに河東の路を歴て、洛陽東山の西の麓、鳥部野の南の辺、延仁寺に葬したてまつる。遺骨を拾ひて、おなじき山の麓、鳥部野の北の辺、大谷にこれををさめをはりぬ。しかるに終焉にあふ門弟、勧化をうけし老若、おのおの在世のいにしへをおもひ、滅後のいまを悲しみて、恋慕涕泣せずといふことなし。
廟堂創立
【15】 第七段
文永九年冬のころ、東山西の麓、鳥部野の北、大谷の墳墓をあらためて、おなじき麓よりなほ西、吉水の北の辺に遺骨を掘り渡して仏閣を立て、影像を安ず。このときに当りて、聖人(親鸞)相伝の宗義いよいよ興じ、遺訓ますます盛りなること、すこぶる在世の昔に超えたり。すべて門葉国郡に充満し、末流処々に遍布して、幾千万といふことをしらず。その稟教をおもくしてかの報謝を抽んづる輩、緇素・老少、面々に歩みを運んで年々廟堂に詣す。おほよそ聖人在生のあひだ、奇特これおほしといへども羅縷に遑あらず。しかしながらこれを略するところなり。
[奥書にいはく]
[右縁起図画の志、ひとへに知恩報徳のためにして戯論狂言のためにあらず。あまつさへまた紫毫を染めて翰林を拾ふ。その体もつとも拙し、その詞これいやし。冥に付け、冥に付け顕に付け、痛みあり恥あり。しかりといへども、ただ後見賢者の取捨を憑みて、当時愚案の 謬を顧みることなきならんのみ。]
[時に永仁第三の暦、応鐘中旬第二天、晡時に至りて草書の篇を終へをはりぬ。] [画工 法眼浄賀 号康楽寺] [暦応二歳己卯四月二十四日、ある本をもつてにはかにこれを書写したてまつる。
先年愚筆ののち、一本所持のところ、世上に闘乱のあひだ炎上の刻、焼失し行方知れず。しかるにいま慮らず荒本を得て記し、これを留むるものなり。]
[康永二載癸未十一月二日筆を染めをはりぬ。]
[桑門 釈宗昭]
[画工 大法師宗舜 康楽寺弟子]