ぎょうしんーふり
阿弥陀仏より回向された、行業(なんまんだぶ)と疑いなき信心は不離であること。
仏教が、哲学や通常の思想と最も異なる点は行の有無である。仏教は「信解行証(しん・げ・ぎょう・しょう)」[1]といい実践しなければ意味がなく、日々の生活の中で教えが実行できてこそ、仏道の真の具体的意味がある。浄土真宗では信を強調するのだが、行なき信はなく、また信なき行もないのである。行なき信は観念の遊戯であり、信なき行は不安の叫びである、といわれる所以である。
この行信不離の意を御開山は、
- 信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。
- そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。 (消息 P.749)
と、行を離れた信はなく、信を離れた行もなく行信不離であるといわれていた。
- →行
- →信
- →行信
- →大行
- →大信
- →四法
- →選択本願
- →第十七願
- →第十八願
- ↑ 信解行証。教法をまず信じて、理解し、行じて、証果を得るという仏教のプロセスを指す語。『大智度論』には経の始めに如是とある意を「仏法の大海は、信を能入と為(な)し、智を能度と為す (仏法大海信為能入。智為能度)」(*)とあり、信は仏教に入る初門である。なお、浄土真宗では本願力回向の「行信」を説くので行と信が中核となる。