いま…かくのごとし
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
通常は「いままさにつぶさに説くべし。無量寿仏・世自在王仏…この諸仏世尊、現に十方の清浄世界にまします。 みな名を称し憶念すべし。阿弥陀仏の本願はかくのごとし」と読む。
親鸞聖人は「諸仏はすべて阿弥陀仏の名号を称揚讃嘆する」という意に転じ、原文を読み改められた。 (行巻 P.153)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- 原文:(十住毘婆沙論)
今当二具説一。無量寿仏・世自在王仏・ {原文では以下105仏の仏名を列挙するのだがここでは省略}
- いままさにつぶさに説くべし。無量寿仏・世自在王仏……。
是諸仏世尊現在二十方清浄世界一。皆称レ名憶念。
- このもろもろの仏世尊現に十方の清浄世界にまします。みな名を称し憶念すべし。
阿弥陀仏本願如レ是。若人念レ我称レ名自帰 即入二必定一得二阿耨多羅三藐三菩提一。是故常応二憶念一。
- 阿弥陀仏の本願はかくのごとし、「もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得」と。このゆゑにつねに憶念すべし。 (十住毘婆沙論P.14)
- 御開山:(行巻)
今当三具説二無量寿仏一。世自在王仏。{乃至有其余仏}
- いままさにつぶさに無量寿仏を説くべし。世自在王仏[乃至その余の仏まします]
是諸仏世尊 現在十方清浄世界 皆称レ名 憶二念 阿弥陀仏本願一如レ是。
- この諸仏世尊、現在十方の清浄世界に、みな名を称し阿弥陀仏の本願を憶念することかくのごとし。
若人 念レ我称レ名 自帰 即入二必定一 得二阿耨多羅三藐三菩提一 是故常応二憶念一。
- 今、詳しく無量寿仏について説こう。世自在王仏をはじめ、その他の仏がたもおられるが、これらの仏がたは、現にすべての清らかな世界において、みな阿弥陀仏の名号を称え、その本願を念じておられることは、以下の通りである。すなわち、阿弥陀仏の本願には、<もし人が、わたしの名を称え、他力の信心を得るなら、ただちに必定の位に入り、この上ないさとりを得ることができる>と誓われている。
御開山は原文の、世自在王仏から後の105仏を「乃至有其余仏(乃至その余の仏まします)」として省略されておられる。そして訓点を替えられて、原文では、衆生は十方清浄世界の諸仏の名を称し憶念すべしとある文を、「いままさにつぶさに無量寿仏を説くべし」と、無量寿仏を主体とされ、あらゆる諸仏は、みな〔なんまんだぶ〕と阿弥陀仏の名を称し阿弥陀仏の本願を憶念されている、と読み替えられた。この文に第十七願の「諸仏称揚」(諸仏の称名と憶念)と「選択称名」(衆生の憶念と称名)[1] の意をみておられたのである。→称
このように読めたのは、法然聖人が『三部経大意』などで第十七願を、
- 「その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり、第十七の願これなり。」(三部経大意p.783)
とされ、聖覚法印に執筆させたという「登山状」にも、
- ねがはくはわれ十方諸仏に、ことことくこの願を称揚せられたてまつらんと、かくのことく思惟して、第十七の願に「設我得仏 十方無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」とちかひ給ひて、つきに第十八願に「乃至十念、若不生者、不取正覚」、とちかひ給へり。 (拾遺語灯録中p.721)
と示された意を承けられているのであった。聖覚法印にも
- 「まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこころうべし。名号をもつてあまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆゑに、かつがつ名号をほめられんと誓ひたまへるなり。」(唯信鈔p.1341)
と、第十八願の「乃至十念」を第十七願にみておられる。御開山は、これらの意を承けて『阿弥陀経』の六法段──異訳の『称讃浄土経』では十方段──で、
- 「なんぢら衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃したまふ一切諸仏に護念せらるる経を信ずべし」(小経 P.125)
という諸仏の称讃の意を『無量寿経』の第十七願の、
- 「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」(大経 P.18)
に於いて見られたのであった。そもそも第十七願は衆生ではなく、十方世界の無量の諸仏に誓われた願であったのだが、第十八願の「乃至十念」は心念ではなく声の称名であることを、諸仏の教位に於いて確認されたのである。なんまんだぶと称えることは諸仏の行に等しいので「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」(行巻p.141) と大行(偉大な行)とされたのであった。これはまた明恵高弁が『摧邪輪莊嚴記』で、法然聖人の「念声是一釈」(選択集 P.1212) に対して、
と、「乃至十念」は心法であって称名という色法ではないからと「念声是一」と言えないという論難に対する御開山の応答でもあった。