13 同朋・同行
『歎異抄』などでは、法然上人を同じ師とする門下のともがらのこととされている。親鸞聖人の『御消息』(三)では、「とも同朋にもねんごろにこころのおはしましあはばこそ」などと、専修念仏に生きるものの平等のありようとして使われている。
同行とは『華厳経』などでは、同じ仏道修行に励むもののこととされている。天台大師の『摩訶止観』には、「同行とは(中略)切磋琢磨し、心を同じくし志を斉しくして一船に乗るがごとく、たがひにあひ敬重して世尊を視るがごとくす」といわれている。また善導大師は、同じ念仏行に生きるものの意とされ、親鸞聖人の『御消息』には、共に念仏の教えを聞き行ずる人々として「御同行」、「とも同朋」といわれ、浄土真宗の信者は心を同じくし、親しんで道を行ずるものとして使われる。親鸞聖人は、「とも同朋にもねんごろに」とか「同行をあなづるな」といわれているが、これは阿弥陀仏の平等の大悲に包まれて、共に仏子として救われていく念仏者の平等性と互敬の思いを示されたものといえよう。すなわち他力回向の一味の信心に生き、同一の念仏に生きるものとして、正定聚の位につき、「弥勒と同じ」、「如来とひとしき」尊い徳に生かされるものとして、互いに信頼と尊敬の念をもって「御同朋、御同行」と敬愛しあって生きるべきことを示されているのである。とくに親鸞聖人は『歎異抄』(五)に、「一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり」といい、念仏者だけでなく、すべての衆生は、同じいのちにつらなる父母・兄弟であるとして、同朋の観念を一切衆生にまでひろげ普遍化されている。
教団の歴史のなかでは、毎月一定の日に道場に集合して行う仏事を縁として講が組織され、同行、同朋として当時の社会身分階層を越えて親しみ、差別を打ち破って同じ信に生きる喜びを一つにする、信仰共同体を生み出して来た。ところが、一方では、社会的分業が進み、職業が固定化し、差別も流動的なものから固定的なものになっていった。そして、封建的身分制が確立した江戸時代に至っては、同朋思想も形骸化し、教団のなかにさえ「穢寺、穢僧」をつくり、御同朋であるべき門徒のなかでも差別をする事実を生み出してきた。さらに昭和に至っても差別温存の姿勢がつづけられていることは大きな誤りである。 (御消息 P.740)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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