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行信不離

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2018年9月23日 (日) 11:00時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

ぎょうしんーふり

 阿弥陀仏より回向された、行業(なんまんだぶ)と疑いなき信心は不離であること。
仏教が、哲学や通常の思想と最も異なる点はの有無である。仏教は「信解行証(しん・げ・ぎょう・しょう)」[1]といい実践しなければ意味がなく、日々の生活の中で教えが実行できてこそ、仏道の真の具体的意味がある。浄土真宗では信を強調するのだが、行なき信はなく、また信なき行もないのである。行なき信は観念の遊戯であり、信なき行は不安の叫びである、といわれる所以である。

この行信不離の意を御開山は、

信の一念行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。
そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。 (消息 P.749)

と、行を離れた信はなく、信を離れた行もなく行信不離であるといわれていた。

行信
大行
大信
四法
選択本願
第十七願
第十八願

  1. 信解行証。教法をまず信じて、理解し、行じて、証果を得るという仏教のプロセスを指す語。『大智度論』には「仏法の大海には信を以て能入となし、智をもって能度となす」とあり、信は仏教に入る初門である。なお、浄土真宗では本願力回向の「信」を説くので信が中核となる。