安心論題/帰命義趣
提供: WikiArc
(9)帰命義趣
一
「
しかし、浄土真宗にあって、阿弥陀仏に帰命するというのは、私の方から仏に向かってお助けを請い求めることではありません。阿弥陀仏の方からの救いのよびかけを受けて喜ばせていただくことであります。
かつて、
「無帰命安心」というのは、阿弥陀仏は私どもを救わねば仏にならぬとお誓いくだされ、すでに十劫のむかし仏となられたのだから、私どもはすでに救われているのである。だが、それを知らなかったために今まで迷うていたので、そのことを知りさえすればそれでよい。いまさら阿弥陀仏に帰命するなどということは無用である、という説である。これは阿弥陀仏のお救いを観念的にとらえ、いま法を聞いて信心決定させていただくということを無視した誤った主張であります。
これに対して、十劫のむかしに本願は成就されているけれども、いま私が往生を願わなければ往生はできない。その往生を願うことが帰命であると説いたのが「願生帰命」の説であります。さらに、身に阿弥陀仏を礼拝し、口に阿弥陀仏の名を称え、
無帰命安心の説が誤りであることは申すまでもありませんが、願生帰命説もまた正しいとはいえないと思われます。そこで、浄土真宗における「帰命」の意義趣旨はどのようであるかをうかがうのが、この論題であります。
二
帰命というのは、梵語「南无」 [3]の訳語であって、南无は帰命と訳されるほか、
①
②
③
(①②は賢首の『起信論義記』、③は元暁の『起信論疏』の意による)
往生浄土門の中にあっても、右と同様に、
㋑
㋺
㋩
以上、三通りの解釈があって、浄土宗ではいずれの義も用いられますが、鎮西派は帰投身命の義を主とするのがその特色であり、西山派は帰還命根の義に重きを置くのがその特色であります。
浄土真宗にあっては、「帰命」は
三
宗祖聖人は『尊号真像銘文』に、天親菩薩の『浄土論』の文を解釈されて(真聖全二―五六四)、
- 「
帰命尽十方 无㝵光如来 」ともうすは、「帰命」は南无なり。帰命ともうすは如来の勅命にしたがいたてまつるなり。(*)
と仰せられ、同じく『銘文』に、善導大師の『玄義分』の六字釈の文を解釈されるところには(真聖全二―五六七)、
- 「言南无者」というは、南无はすなわち帰命ともうすことなり。帰命はすなわち釈迦弥陀の二尊の勅命にしたがい、めしにかなうともうすことばなり。このゆえに「則是帰命」とのたまえり。(*)
と示されています。
『浄土論』の偈文(*)(真聖全一―二六九)には、「世尊我一心 帰命尽十方 无㝵光如来 願生安楽国」 [4]とあります。この「一心帰命」は、『本典』信巻の三心一心の問答に信楽一心とされていることは、すでに「三心一心」という論題でうかがった通りであって、これを『尊号真像銘文』では前記の通り、「如来の勅命にしたがいたてまつるなり」と仰せられるのであります。
また『玄義分』の六字釈の「言南无者、即是帰命、亦是発願廻向之義」 [5] (*)等(真聖全一―四五七)とある「帰命」については、同じく善導大師の『散善義』の三心釈に示された
- 仰いで釈迦発遣して、おしえて西方に向かえたもうことをこうむり、また弥陀の悲心招喚したもうによって、いま二尊の意に信順して、水火の二河をかえりみず、念念にわするることなく、かの願力の道に乗じて……。(*)
等と示されています。この意味によって、宗祖は『尊号真像銘文』に、前記の通り「帰命はすなわち釈迦弥陀の二尊の勅命にしたがい、めしにかなうともうすことばなり」と仰せられるのであります。
このように、阿弥陀仏に帰命するというのは、阿弥陀仏の招き
四
宗祖は右に述べたように、「帰命」を
- しかれば南无の言は帰命なり。「帰」の言は至なり、また
帰悦 なり……また帰税 なり。……「命」の言は業なり、招引なり……召すなり。ここをもって帰命は本願招喚の勅命なり。(*)
と。このおん釈によれば、帰命とは、よりかかれよ、よりたのめよと私どもを招き喚んでくださる阿弥陀仏のよび声である。と仰せれれています。これは、私どもに信を命じつつあるのが名号大行である、という意味をあらわされるのであります。
そのほか、「帰命」を
- 「
帰命 尽十方 无㝵光如来 」とは、「帰命」はすなわちこれ礼拝門 なり。(*)
等と示されています。これは『浄土論』の
そこで、初めの一行四句は、天親菩薩がみずからの信心をお述べになった偈文ですが、これを三念門にあてはめて、「帰命」は礼拝門、「尽十方无㝵光如来」は讃嘆門、「願生安楽国」は作願門として解釈されるのであります。この場合、「帰命」は身業の礼拝門の行とされ、龍樹菩薩の『易行品』には、帰命の語を礼拝の意味として用いられた例があるといって、その例をあげていられます。
五
このように見てきますと、浄土真宗にあっては、「帰命」ということは、
⑴帰順勅命。これは「命に帰す」とよむ意で、本願の信楽と同じ。
⑵本願招喚の勅命。これは「帰せよの命」とよむ意で、衆生に信受せよと命じたもう如来のよび声。
⑶礼拝。これは身業に阿弥陀仏を礼拝すること。
この三通りの解釈がありますが、この中で、⑴の阿弥陀仏の勅命に信順すること、すなわち本願の信楽と同じ意味であるという義が、「帰命」の解釈の据わりであります。そして、⑵の如来の勅命とされる解釈は、⑴の衆生の信楽のおこる本をあらわされます。すなわち阿弥陀仏の「帰せよの命」によって、衆生の「命に帰す」という信心はおこさしめられるのである。名号大行が衆生に届いて信心となるのであるという意味をあらわされるのであります。⑶の礼拝の義は、起行の上では身業に礼拝となる旨を示されたものといえましょう。
なお、『玄義分』の帰三宝偈には(真聖全一―四四一)、
- 世尊、われ一心に、尽十方の法性真如海と報化等の諸仏と……果徳涅槃の者とに帰命したてまつる。われらことごとく、三仏菩提尊に帰命したてまつる。(*)
等とあります。この場合の「帰命」は、ひろく仏法僧の三宝に対する帰敬(恭敬)の意を示されたのであって、弥陀一仏に信順する意をあらわす「帰命」とは異なる用例であります。
以上、これを要するに、浄土真宗において、阿弥陀仏に帰命するというのは、本願招喚の勅命に信順すること、すなわち信楽一心を意味するのであって、衆生の方から仏に向かって、往生させてください、どうかお救いくださいと
たとえば、車がすでに目の前にあって、「さーお乗りなさい」といわれていれば、「はい有難う」と乗せていただくのが正しい受け止め方でありましょう。それに「どうか迎えに来てください。どうか乗せてくださるようお願いします」と、こちらから
この論題は⑶「信願交際」、⑽「タノム・タスケタマヘ」、⑾「所帰人法」などの論題と関連しています。
『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p106~
脚注
- ↑ 『観経疏』「定善義」に「衆生行を起して口につねに仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまふ。 身につねに仏を礼敬すれば、仏すなはちこれを見たまふ。 心につねに仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまふ。 衆生仏を憶念すれば、仏もまた衆生を憶念したまふ。 彼此の三業あひ捨離せず。 ゆゑに親縁と名づく」とある。無帰命安心に対してこの文を根拠として三業あげての帰命を勧めたのであろう。
- ↑ 三業帰命説では、往生を願い求める心は、帰命の身・口・意の三業のすがたにあらわさなければならないとした。この説をめぐって勃発したのが三業惑乱の騒動である。この新義の三業帰命説に対して、浄土真宗の信心は三業によっては判定できないとし、信心は非意業であるとして騒動は決着した。この騒動後に出されたのが『御裁断御書』である。
- ↑ 御開山は、南無の無を同義字の无を使用された。南无阿弥陀仏の六字名号
- ↑ 世尊我一心 帰命尽十方 无㝵光如来 願生安楽国。 世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。
- ↑ 言南无者、即是帰命、亦是発願廻向之義。 南無といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。
- ↑ 五つの念仏の法門。
- ↑ 観彼世界相。 かの世界の相を観ずるに。
- ↑ 我作論説偈。 われ論を作り偈を説く。