義なきを義とす
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
ぎなきを-ぎとす
本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。
前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。
また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。 三経 P.629 二種 P.723 消息 P.746 消息 P.768 消息 P.776 消息 P.777 消息 P.779 消息 P.781 消息 P.798 正像 P.622
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- →宜
『御消息』第6通には、
- 「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。 (御消息 P.746)
とあり、第19通にも、
- また弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人(法然)の仰せにて候へ。 (御消息 P.776)
とあり『尊号真像銘文』に、
- 「他力には義のなきをもつて義とす」と、本師聖人(源空)の仰せごとなり。「義」といふは行者のおのおののはからふこころなり。このゆゑにおのおののはからふこころをもたるほどをば自力といふなり。よくよくこの自力のやうをこころうべしとなり。 (尊号 P.673)
などとあるように「義なきを義とす」は、法然聖人が用いられていた語であるとされている。
無義以義
歎異鈔10条に、
- 念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。
とあるのだが、この言葉の前には「他力」という主語が付加されるべきある。
利他→主体が弥陀。 他利→主体が衆生。よって教法に対して自己の領解を述べるときは、義なきを義とするの意。